江戸時代の渋谷
1603(慶長8)年に江戸幕府が開かれると、江戸城を中心に武家の屋敷が広がっていった。江戸の周辺部にあった渋谷では、当初はのどかな風景の広がる農村地帯であった。しかし、江戸市街地の拡大により江戸城に近い東側から次第に武家地が成立し、幕末までには東側台地の大半が武家地で占められるようになった。そこには大名から幕府の下級役人まで様々な武家の屋敷があった(図1)。
大名屋敷を用途別に分類すると、藩主が居住した上屋敷、隠居や嗣子が居住した中屋敷、避難場所・別荘などの役割を果たす下屋敷などに分けられるが、江戸の郊外に位置していた渋谷の大名屋敷は下屋敷がほとんどであり、堀田家下屋敷など広大なものもあった。
「近世絵図の研究」
目次
1.はじめに
2.江戸時代の渋谷
3.「東都青山絵図」について
4.武家屋敷の変遷
(1) 山城国淀藩稲葉家下屋敷の場合
(2) 伊予西条藩松平家上屋敷の場合
5.おわりに
参考引用文献
1.はじめに
本稿では、授業で拝見した「東都青山絵図」を使って、江戸時代と現在の渋谷・青山を比較していこうと思う。
2.江戸時代の渋谷
1603(慶長8)年に江戸幕府が開かれると、江戸城を中心に武家の屋敷が広がっていった。江戸の周辺部にあった渋谷では、当初はのどかな風景の広がる農村地帯であった。しかし、江戸市街地の拡大により江戸城に近い東側から次第に武家地が成立し、幕末までには東側台地の大半が武家地で占められるようになった。そこには大名から幕府の下級役人まで様々な武家の屋敷があった(図1)。
大名屋敷を用途別に分類すると、藩主が居住した上屋敷、隠居や嗣子が居住した中屋敷、避難場所・別荘などの役割を果たす下屋敷などに分けられるが、江戸の郊外に位置していた渋谷の大名屋敷は下屋敷がほとんどであり、堀田家下屋敷など広大なものもあった。
また主要な道沿いや寺社の門前などには町屋が立...