理想の介護施設とはどのようなものであるか、と考えた場合、食事が美味しい、レクリエーションが楽しい、設備が充実している、職員が親身である――といったように、個々の要素でみればその内容は多岐にわたり、それこそ被介護者の嗜好によって判断されるのではないだろうか。しかし、その上でなお最も重要な要素というか、全ての要素に共通の精神性のようなものが必要であると私は考える。それは、介護者と被介護者との間に精神的な上下関係がない、ということである。私にも介護をした経験があるが、長く介護をしていると、どうしても「介護をしてあげている」という意識が生まれがちになり、それは被介護者に対してのストレスとなってしまう。つまり、介護者は「介護をさせてもらっている」という意識で仕事にのぞみ、被介護者は「生活をサポートしてもらっている」という意識が芽生える介護施設が理想であると考える。
1.選択肢を与える
広義では「職員が親身である」という要素に含まれるかもしれないが、決定的な違いは、その精神性が介護施設のシステムにまで浸透しているかどうか、という点にある。いくら職員の側に「介護をさせてもらっている」という意識があろうと、それが目に見えた形で表れないことには被介護者側に伝わらないし、何より説得力がない。では、どうすれば客観的に「介護をさせてもらっている」と言えるのだろうか。
まず、介護とはあくまで「日常生活をサポートするための行為」であるため、要介護にならなければ送れたはずの有意義な人生を、生活を、実現させるべく助力することこそがその本質であると考える。だとすれば、当然生活における決定権は被介護者にあるべきである。つまり、食事にしろ、レクリエーションにしろ、何が食べたいか、なにをやりたいかということを被介護者本人に決めてもらうことが重要なのだ。ただし、完全に決定権を委ねるのでは逆に不親切になってしまうため、職員としては選択肢を提示する形をとる。こうすることで、被介護者同士によって相談というコミュニケーションが生まれるし、自分達で決めたという事で自我を意識するようになり、結果的に被介護者は生活が充実すると考えられる。
2.具体的な提唱
ある医療現場での報告では、要介護の高齢の女性に「おばあちゃんじゃないと良い味がでない」といってヌカ床をかき混ぜる役目を任せたところ、他の要介護者には見られないポジティブなメンタル面を発揮し、明るい性格になりリハビリに積極的になったという。また、これは私の経験談になるのだが、要介護の祖父は足が悪く、車椅子にもなかなか乗れないような状態であったが、絵画という趣味があり、いつか庭を自分の足で歩き、その風景を描きたいという目標があった。結果、自分から積極的にリハビリを続け、医師からも「足を切断しなくてはならないかもしれない」と言われた状況から、手摺りを伝いながら廊下を歩くことができるレベルにまで回復したのである。
これらのことは、ある意味で1の裏付けと言える。要介護者にとって最も重要なことは、自分が必要な存在であると自覚すること、もしくは生きていることを実感することであると考えられる。ただ職員の決めた食事をし、ただ職員の決めたレクリエーションをし、リハビリをして一日を終える、それだけでは、言い方は悪いが「生かされている」と考えてしまいかねない。そのため、できるだけ職員は被介護者に「あてがう」という行為をしないことが重要であり、レクリエーションも社会貢献度が高いものや自発性を促すものを用意すると良いのではないだろうか。
例えば、被介護者がレクリエーションで陶芸を行い、その作品をバザーなどに出店することで金銭を得、その金銭を被災地に寄付する。そうして社会と繋がることで、被介護者に自尊心を持たせることができるだろう。また、オシャレのレクチャーをするというのも一つの方法ではないだろうか。私の仮説では「自分から何かをしようと考えること」が被介護者には必要であると考える。オシャレという行為は、そもそも自分を良く見せようという行為であるため、自分の価値を高めるといった精神意識に通じる。しかも、朝起きて身嗜みを整え、女性なら化粧をする、といった行為は被介護者の自発性を促している。
3.経営面における意味
理想的な介護施設とは何かというテーマにおける、介護者と被介護者の精神的上下関係を排除、という仮説は何も精神論や感情論だけに起因したものではない。近年、介護施設や介護関係の企業も増加したことで、介護関係の業界はもはや競争社会の市場となりつつある。競争社会というと、印象として心の通わない無機質なサービスになるのではないかという懸念もあるかもしれないが、私はそうはならないと考える。例えば、レストランや量販店といった屈指の競争率を誇る市場では、ありとあらゆるサービスが考案され、社員には、お客様に「召し上がっていただく」「ご購入していただく」という意識を持たせている。そこで介護施設の場合、お客様とはすなわち被介護者であり、被介護者は少しでも良いサービスを求めて介護施設に訪れるのだ。だとすれば、社員にあたる介護者は、被介護者に「介護させていただく」と考えるようになるべきである。そういう意識を持つことから、より良いサービスが生まれるという理屈になる。
つまり、介護関係の業界が競争原理の働く市場となることで、介護施設はより被介護者の求めるサービスを行うようになり、理想的な介護施設の実現に向かうと考えられる。そして理想的な介護施設が競争社会市場でこそ成り立つとすれば、やはり他の競争社会市場に倣い「~~させていただく」という意識を持つことが重要になるのではないだろうか。介護者と被介護者の精神的上下関係の排除は、競争社会市場となりつつある看護施設において、いわば先駆けとしての意味もあるのだ。
以上のように経験面、経営面から考えて、私の考える理想の介護施設とは、客観的に見て介護者と被介護者の間に精神的な上下関係のない介護施設である。もっとも、1や3で述べたように、こういった意識を持つことは理想への第一歩でしかない。その意識を職員が持つことにより介護施設が行うであろうサービスをシミュレートすると、結果的に被介護者が自立的な精神面を持てるようなサービスを行う介護施設、が理想となる。
経営面からみた場合、いずれにせよ競争社会で生き残るためには、介護施設の営業努力として被介護者の嗜好に沿ったサービスを提供する必要がある。しかし被介護者にはそれぞれの嗜好があるため、一通りのサービスでは他の被介護者の嗜好に沿わない可能性が高い。だからこそ、多様な要求を持つと予想される多くの被介護者を受け入れるためには、被介護者に選ばせるという自由が必要なのだ。その上でコミュニケーションがとれるとか、生甲斐を得られるといったような精神論でのメリットが追加される。
もっとも、介護福祉士やケアマネージャーの資格をとる上では、このように被介護者の自主性を伸ばすようには勉強しないらしく、実現には時間がかかるだろう。しかし、それでは介護者上位になりがちの介護になってしまうのではないだろうか。確かに、介護保険から収入を得るためには様々なイベントをする必要がある。だから介護者の意識が実際にどうであろうと、介護者が上位であれば自由に行いやすくなる。ただし、それでは被介護者にとっては「やらされている」だけになってしまう可能性があるのだ。理想の介護施設とは、職員にとっての理想ではなく、被介護者の理想であるべきである。だとすれば、職員の負担が少なからず増えることになったとしても、最低限何を食べ、何をするかという選択は被介護者に委ねるべきだと思うし、施設において何かしらの役割を持たせるということですら視野にいれるべきだと私は考える。
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