理性について
植物、動物と人間は異なっている。植物は栄養を取って成長し、動物も生きるために獲物を捕り,生を追求する。しかし、人間は生を追求することに対しては、理性というものを持ち合わせているため、しばしばこれらの性格とは違う側面をもっているのだ。つまり、動物は「快」と「不快」という二つの原理を即時的に判断し,「快」に関してはひたすらそれを追求し、「不快」に対してはひたすらそれから回避しようとするが、一方人間は,理性的判断に基づき、即時的な「快」「不快」の反応ではない、長期的な視野を見据えた上での「有用・有害」といった判断をなすことが可能なのである。こうした長期的な視野を見据えることを「現実原則」といい、長期的な視野を計算することを「計算理性」と呼ぶ。この例としては、即時的な判断としては「不快」な注射を、長期的な視野から見れば病気の予防といった「有用性」をもつがゆえ、将来的には「快」を被ることが出来るだろうと考え、その「不快」な注射をあえて「甘受」する、ということが言えるだろう。逆の例としては、その場での「快」を生むテレビゲームなどがいい例かもしれない。テレビゲームは、確かにそれをしている間は楽しいかもしれないが、やりすぎると目が悪くなるという「有害性」を考えると、あまり長い時間それをし続けることは自分の健康には「害」であると考え、短い時間でそのテレビゲームをやめる(断念する)、ということが言えるだろう。このような計算理性を用いて長期的な視野からみた幸福(「快」「不快」)を自由意志にゆだねられた上で追求する行為を「思慮」(プルーデンス)と呼ぶ。こうした思慮を持ち合わせていない動物が表すような行動は「快感原則」、または「動物原則」と呼ばれ、即時的な「快」「不快」に反応するという性格を持ち合わせているということは最初にも述べたことであるが、
こちらも例を示してみよう。病気の猫がいたとする。注射がどれほど病気に対して「有用」であったとしても、おそらく猫は注射針に対して拒否反応を起こし、針を見ると逃げてしまうだろう。つまり、注射が自分に対して将来的な見地からすれば「有用」であるかもしれず「快」を結果的にはもたらすかもしれないけれども、その場での「不快」が先行し、注射針=痛い、という即時的な判断しかできないということが言えよう。もちろんこの猫に注射の「有用性」を説いたところでその猫が応じるはずもないのは自明であることを断っておきたいと思う。こうした即時的な「快」「不快」だけで行動する「快感原則」は、「現実原則」と比べられた場合、対象化して長期的な目がないとされて、低俗といった感を受けるが、そうした理性を持ち合わせていないことがすなわち低俗であるというイメージは、今の社会においては子どもや精神病者が自由意志をもってないということから優遇されているというようにも読み替えることが可能という一面を持ち合わせている。(自分個人としては、低俗というイメージそのものに疑問を感じているが…)
さて、今まで「快感原則」と「現実原則」について述べてきたが、基本的にはどちらの原則も求めるものは全て「幸福」というものに集約され、最大目標とされる。ただ、その「幸福」を計算理性抜きに即時的に享受するのみなのか、もしくは計算理性を用いた長期的な判断から「不快」を「甘受」、または「快」を「断念」する、ということが可能であるのか、という二つの原則のプロセスの違い、つまり自らが生き、「幸福」を希求する上で「思慮」を持ち合わせているか、もしくは持ち合わせていないかという二つの原則のプロセスの
理性について
植物、動物と人間は異なっている。植物は栄養を取って成長し、動物も生きるために獲物を捕り,生を追求する。しかし、人間は生を追求することに対しては、理性というものを持ち合わせているため、しばしばこれらの性格とは違う側面をもっているのだ。つまり、動物は「快」と「不快」という二つの原理を即時的に判断し,「快」に関してはひたすらそれを追求し、「不快」に対してはひたすらそれから回避しようとするが、一方人間は,理性的判断に基づき、即時的な「快」「不快」の反応ではない、長期的な視野を見据えた上での「有用・有害」といった判断をなすことが可能なのである。こうした長期的な視野を見据えることを「現実原則」といい、長期的な視野を計算することを「計算理性」と呼ぶ。この例としては、即時的な判断としては「不快」な注射を、長期的な視野から見れば病気の予防といった「有用性」をもつがゆえ、将来的には「快」を被ることが出来るだろうと考え、その「不快」な注射をあえて「甘受」する、ということが言えるだろう。逆の例としては、その場での「快」を生むテレビゲームなどがいい例かもしれない。テレビゲームは、確かにそれをして...