部落差別の成立と展開
1 はじめに
小学校、中学校と歴史の授業では「士農工商」という言葉を習った。その時の説明が、「農民は士農工商の
中で一番貧しく、粗末な暮らしをしているので、せめて身分だけでも二番目にしよう。しかし、それならば商
人が怒るので、穢多、非人を設けよう。」だった。その時は、その説明に納得したが、今ならその説明がいかに
誤っているかが分かる。本稿は、『「これでわかった!部落の歴史」[2004]上杉聰』を読んでその要約と私の感
想、意見をまとめたものである。章では、本文の要約をし、章では、この本を読んだ感想と私の意見を述
べている。この本は、10 回分の講義をそれぞれ掲載しているが、本稿では、主に時代区分して、4つの部に分
けている。
2 本文要約
2.1 部落とは
1993 年の総務庁による統計によれば、全国には「部落」の人達が 892,751人生活し、「同和地区」と呼ばれ
るものは、全国に 4442 地区ある。しかし、これらは政府が都合の良いようにまとめた可能性があるため、部
落の人々が「六千部落、三百万の兄弟」と言っているが、こちらが正しいのかもしれない。江戸時代において、
「穢多」「非人」以外に、「皮多」「藤内」等の呼び方が存在していた。1871 年の「賤民廃止令」によって、彼
らは全て平民へと編入され「新平民」という呼び方で統一されることになった。また、明治 20 年代に入って、
市町村合併が全国で行われ、新たに誕生した村と古くからの村を区別して、古くからの村のほうを「部落」と
呼ぶようになった。そこから、かつての穢多、非人の人達の集落を一般の部落と区別して、「特殊部落」と呼
ぶようになったが、戦後不適切な表現とされ、「未解放部落」、さらに「被差別部落」と呼ばれるようになった。
同時に、「同和」という言葉は、戦前、政府や行政の側からの「融和事業」などの表現に由来している。行政の
人間が特定の人を名指しすれば、差別になるので、「融和する事業」という婉曲的な表現が使われた。しかし、
戦時中に不徹底であるとの指摘があり、同和という言葉に変えられて現在へと至っている。このように、言葉
が統一されず、あいまいな理由は、政府、行政の側がこの部落問題について真剣に考えた事がないからであ
る。1章で述べたように、つい最近まで我々が学んできた「士農工商」の身分制度は誤りであった。この士農
工商という言葉は、本来古代中国の言葉であり、元々は身分制度ではなく、民衆を職業で分類した言葉であっ
た。よって、士農工商は、江戸時代における現実の身分制度を表すものではなかった。まず、「農民」「商人」
とは言わずに、「百姓」「町人」と呼び、「工」という身分が存在しなかった。即ち、「百姓」「町人」は身分名
であって、職業名ではないということである。このため、江戸時代の正式な身分は武士、百姓、町人から成り
立っていたと考えられ、また、士農工商のように四段階のピラミッド構造ではなく、一番上に武士がいて、そ
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の下に百姓、町人が同列に並ぶという構造であった。また、もう 1 つ大きな誤りは、部落の人々が身分制度の
最底辺であると認識されてきた事である。江戸時代の史料によれば、部落については、「外」「人外」「人交わ
りせず」という表現がされている。つまり、部落の人々は無視され、疎外されていたのである。明確な例が、
非人という言葉である。「人に非ず」という言葉であり、人間でないと言っており、「人の下」とは言っていな
い。彼らは、「人の外」と考えられていたのである。また、
部落差別の成立と展開
1 はじめに
小学校、中学校と歴史の授業では「士農工商」という言葉を習った。その時の説明が、「農民は士農工商の
中で一番貧しく、粗末な暮らしをしているので、せめて身分だけでも二番目にしよう。しかし、それならば商
人が怒るので、穢多、非人を設けよう。」だった。その時は、その説明に納得したが、今ならその説明がいかに
誤っているかが分かる。本稿は、『「これでわかった!部落の歴史」[2004]上杉聰』を読んでその要約と私の感
想、意見をまとめたものである。章では、本文の要約をし、章では、この本を読んだ感想と私の意見を述
べている。この本は、10 回分の講義をそれぞれ掲載しているが、本稿では、主に時代区分して、4つの部に分
けている。
2 本文要約
2.1 部落とは
1993 年の総務庁による統計によれば、全国には「部落」の人達が 892,751人生活し、「同和地区」と呼ばれ
るものは、全国に 4442 地区ある。しかし、これらは政府が都合の良いようにまとめた可能性があるため、部
落の人々が「六千部落、三百万の兄弟」と言っているが、こちらが正しいのかもしれない。江戸時代にお...