同和教育
設問1
50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括すること。また、人権(同和)教育の意義と学校における人権(同和)学習のあり方を具体的に論述すること。
※部落問題の解決に向けた同和教育、その普遍化として人権教育の創造に向けた実践はいかにあるべきかについて考察を深めること。
同和教育とは、部落差別を解決すための教育の営みだ。同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権に関わる課題だ。そして、国の責務であると同時に国民的課題だ。
同和教育とは日本社会の歴史的発展において形成された身分階層構造により差別され、市民的権利と自由を完全に保障されていないという社会問題から生まれた教育だ。差別により、貧困、劣悪な環境から抜け出せず、差別の悪循環が生み出されている。
同和教育は、昭和初期に「融和教育」として誕生した。路地の者たちの多くは、教育にあまり関心がなく、そのため、子どもたちはほとんど教育を受ける機会がなかった。そのため、明治まで「周囲に融け込もう」とする融和運動によって、一部の青年たちが寺子屋で子どもたちに教える程度であった。
そして、一九一九年、帝国公道会によって開催された「同情融和大会」で、路地の子どもに教育を受けさせること。また、貧困からの脱出と環境改善は周囲の人々の同情によって解消されるという趣旨を発表された。しかし、これは「路地の人たちが可哀想だから、差別はやめましょう」といった同情が基本にあり、それだけでは路地への差別はなくならなかった。
一九二二年、全国水平社が結成され、「糾弾」を旨とする水平運動が全国に広まった。そして、「教育現場での差別発言を止めて、融和教育」を目指すという運動が目立ち、校長や教師たちは路地の子どもたちだけの特別な学校を設置するなど、融和教育が進んだ。しかし、その後戦時体制が強くなり、軍国教育へと吸収されていった。
第二次世界大戦が終結し、同和教育が復活した。しかし、学校での教師による差別発言は多く、解放同盟は従来の融和主義的な同和教育の理念を誤りとし、それこそが差別を再生産していると考えた。この時代から、融和教育は強い左派色を打ち出した解放運動へと変化し、同和教育と呼ばれるようになった。
そして、一九五〇年、大戦によって中断されていた国の不良住宅地区改良法による住宅事業が始められた。この改良住宅建設を皮切りに京都市では相次いで改良住宅が建設され、同時に機関道路の整備や上下水道の敷設などが進められていった。戦後の京都市における同和教育施策は、同和教育児童・生徒の長期欠席・不就学の取り組みに始まる。具体策として、生活困窮家庭の児童・生徒への学用品の無料支給、無料で完全な給食の実施などの要求がなされた。その後、長期欠席の問題が改善され、高校進学率が低く、学力・進路保障の取り組みが始まった。また、補修学級事業は十年間なされていたが、同和地区の高校進学率50%以下であった。
当時、家庭内に学習環境が整備されていない大多数の同和地区児童・生徒が自主的な学習環境が整備することが必要と指摘された。そのため、学習するための公共施設として同和地区内に「学習センター」が建設された。そして、同和地区の高校進学率は92.8%に上昇した。
京都市内の同和地区では抽出促進と呼ばれる授業形態がとられていた。抽出促進は部落の子どもの学力保障を別教室で行うものだ。解放運動や現場教員の熱意が要求して勝ち取った同和加配教員を活かした施策として行われてきた。基本的にはマンツーマンに近い形で課題に応じて学習を進め、最終的には原学級での学習に戻ることを目指すのだった。
そして、より効果的な教育を進めるために、小集団の中で同和地区生徒の「自律の促進」と「格差の是正」を確かなものにしようと、少人数制の分割授業へと転換が図られた。この方法では生徒の実態把握も原学級単位の授業よりきめ細やかに行うことができた。そして、部落の子どものみではなく、全ての子どもに焦点を当て、部落の子どもたちの確かな学力保障を目指した分割授業の取り組みは「個人選択制習熟度分割授業」へと形態を変えていった。
一九八〇年から、生徒の学力・進路保障を進める取り組みの動機付けのために、幅広い学力の定着を目指した「すその学習」が始まった。さらに、九〇年度には「同和問題解決の主体者として、社会の様々な分野に進出し自らの個性と能力を発揮し、豊かな生活を築くと共にあらゆる差別をなくす人間として成長する子ども」を中心とした自立促進と格差是正が示された。
一九五〇年より取り組まれていた、環境改善によって同和地区内では所得の二極化が進んだ。雇用促進により、持ち家を地区外に持ち始め、その結果、子どもの数が減少し、高齢者の割合が増加した。人口減少と高齢化が課題となり、空洞化が進行していった。そして、生活安定層が地区外へと流出し、生活不安定層が残留・流入するという流動化が起きた。
その後、文部省によって「同和教育研究指定校」制度が始まり、路地の生徒を抱える学校を特別に指定することになり、一九六九年の同和立法により加配教員が配置された。そして、全国水平社などの解放同盟は大阪、広島、福岡を中心として教育現場との結びつきを強くし、「国策」を後ろ盾にして、大きな影響力を持っていった。
この頃の大阪での路地の教育現場では、「部落民宣言」が行われていた。それは、七〇年代の狭山闘争を時に、路地の生徒だけが一斉に学校を休んだり、ゼッケン等を着用し、デモ行進をすることで、部落民というアイデンティティを育むという意味で始まった。 そこには社会に出ても自分は同和地区の出身者として堂々と生きてほしいという教師たちの理想が込められていた。しかし、それは理想を追求した教育実践の一つであった。その後、七〇年安保を経て、学生運動に関わった学生たちが「大勢の変革と、部落解放は教育から」という理念を持って教師となった。そのため、当時の政治は自民党、つまり保守系が政権を握っていたが、教育現場では社共系が実験を握ることになった。こうして、同和教育は教育界の主流となった。
しかし、広島県立世羅高校の校長が自殺した九九年頃から、解放同盟は力を失っていく。そして、二〇〇二年に同対法が切れることもあり、「国家権力」の後ろ盾がなくなることから急激に衰退していった。そうした時代を背景に、路地の家庭も生徒たちも変化し始めた。同和対策事業により、以前のような貧困家庭から少なくなり、路地の生徒の高校進学率は九〇年代後半にはほぼ一般地区と同じになっていた。そして、路地も一般地区と同様に総中流化していった。また、二〇〇二年に同体法が期限切れとなり、二一世紀になると同和教育は「人権教育」となり、また解放教育は過去の「過激な教育実践」として、急激に忘れ去られた。
同和教育は「子どもたちの教育権を保障すること」を最重要課題とし、それを克服することで負のスパイラルから抜け出せると考えた。初めに子どもの欠席率の改善に取り組み、その次に高校進学率を上げるために補修学級などをスタートさせた。同和教育の役割は「教育を受ける権利保障、学力・進路の保障」や「心理的差別に解消」であった。そして、これらの同和問題の解決者は子どもたち自身という主体性を持たせ、問題に取り組むことを目指していた。
これらの教育において重要な点は「学力の向上」や「生きる力」などは個人が主体的に学ぶことでより幅広い知識、それを活かす力が身につく。そのため、参加型・体験型な学習を採り入れていくことは非常に効果的だった。また、保護者や地域との協力を抜きに学力保障は難しい。なぜなら、地域のコミュニティの力が弱まり、学校だけでは克服できない課題が子どもたちを取り巻く環境の中に存在しているためだ。そのため、家庭学習の充実を含め、地域との連携が重要と考える。
人権教育とは「人格の全面的発達」が目的であり、人権文化を育むよう、社会の平和、安全および発展に焦点を合わせることによって、全ての学習を各々の状況に合わせて組織しなければならない。先行きが不透明な時代で、主体的な考えを持ち、他人とともに強調し、思いやる心などの人間性を含んだ「生きる力」を育成することが重要だ。これは「人権を尊重して生きる子ども」を意味しており、「人権の尊重を基板とした学校文化」を創り出していき、個が尊重される学校作りが必要だ。そして、子ども自身が人権というものを考え、「差別はしない」ではなく「するかもしれないという」主体的に考えていくことが必要だ。
P6703 同和教育 第1設題
14743-50343 三宅 広平
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