初期議会から日清戦争後にかけての政党について
初期議会の特徴は超然主義をかかげて軍備増強をすすめる政府と、予算削減と民力休養を主張する民党との激しい対立である。
第一回帝国議会の時の首相は山県有朋である。衆議院の構成(第一回総選挙の結果)は、三〇〇議席中、立憲自由党が第一党(一三〇)、立憲改進党も四〇議席で、民党が過半数を占めていた。この時、「国境としての主権線」とともに「朝鮮を含む利益線」の防衛のための陸海軍増強を訴える山県首相に対して、民党は「民力休養・経費節減」を唱えて、軍事費重視の予算案通過に反対した。政府は、植木枝盛ら自由党土佐派四〇人を買収して、予算を通過させた。これに怒った中江兆民が衆議院議員を辞めた。 松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立した。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。しかし、結果は民党が過半数を占め、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否し、...