浮世絵は庶民の風俗を捉えた絵画である。 その誕生は桃山初期、戦乱が終わり安定した 世の中へ移っていく時代である。それまでの 上から庶民を見下した形で描かれた風俗画と は違い、庶民の視点から描かれている。これ は、庶民でも生活を楽しむ余裕を持てる者が 増え、絵が娯楽の一つになったためと考えら れる。
初期浮世絵のはじまりは『伊勢物語』など 木版本の挿絵で、技術的には未熟で単色摺り の摺り自体も粗い物であった。江戸時代にな ると、これらの挿絵が次第に一枚の絵として 発展し、書物の一部としてではなく純粋に絵 を楽しむための一枚絵として出版されるよう になった。後に、多色摺りが可能になり、よ り高度な彫や摺の技術が生み出された。多色 摺り浮世絵版画は、江戸大衆文化の発展とと もに、世界でも類を見ないほどの高レベルな 印刷技術へと進化していったのである。
【浮世絵の歴史】 <400>
―初期―
明暦の大火ごろから宝暦の頃までをさす。 初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色摺り(墨 摺絵)が主である。この頃、木版画の原図を 描く者を版下絵師といい、その中で絵本や浮 世草子に挿絵を描いた菱川師宣が登場する。
浮世絵を一枚摺で独立した形で描いた師宣は 「浮世絵版画の祖」と言われる。また彼の代 表作として有名な『見返り美人図』は肉筆画 である。
元禄後期から、「墨摺絵」に鉱物質の酸化鉛 である赤色の丹を主に用いて彩色を施した「丹 絵」が現れる。享保期に入ると、丹の代わり に、より色調の柔らかい植物性の紅を主色に 用いた「紅絵」や紅絵の墨の部分に膠分の多 い墨を用いて、漆のような光沢を出したり、 銅粉や雲母を振りかけた「漆絵」が考案され る。これらの作品は寛保・延亨頃まで制作さ れたが、墨摺り+手彩色という工程では手間 がかかりすぎ、量産が次第に難しくなってい った。 <800>
延亨元年に「見当」を用いて、墨摺りに紅 と草色などを重ね摺りする「紅摺絵」が誕生 した。見当とは画面欄外の下辺、下隅の角の 二か所に付けられた印のことで、墨版や色版 を摺り重ねる際の目印となる。これによって、 色摺版画を用いての量産が可能になった。
―中期―
錦絵が誕生した明和2年から 文化 3年頃を さす。「錦絵」とは、「錦のように美しい絵」 ということである。明和2年に江戸の俳人を 中心に 絵暦 が流行し、絵暦交換会が開かれる
ようになった。その需要に伴い鈴木春信らが 多色摺りによる東錦絵を発明したことで、浮 世絵文化は本格的開花期を迎えた。多色摺り が可能になった背景には、色を何版重ねても ずれないよう、すべての版木に「見当」を彫 り、それに紙を合わせて版が摺られるように 工夫されたこと、複数回の摺りに耐えられる 丈夫で高品質な 紙 が普及したことが挙げられ る。また、経済の発展により下絵師、彫師、<1200> 摺師と複雑な工程の分業体制を整えることが できた点も重要である。
「錦絵の祖」と呼ばれた鈴木春信の死後、 絵柄は、写実的なものへと変化していった。 さらに 喜多川歌麿 が登場し、繊細で上品で優 雅なタッチで、 美人画 を数多く手がけた。
寛政7年、版元 蔦屋 が起死回生を狙い、 東 洲斎写楽 が売り出される。独特の誇張された 役者絵によって話題を呼ぶが、特徴を誇張し すぎて、人気が振るわなかった。
―後期―
文化 4年から 安政 5年頃までをさす。 喜多 川歌麿 の死後、美人
浮世絵は庶民の風俗を捉えた絵画である。 その誕生は桃山初期、戦乱が終わり安定した 世の中へ移っていく時代である。それまでの 上から庶民を見下した形で描かれた風俗画と は違い、庶民の視点から描かれている。これ は、庶民でも生活を楽しむ余裕を持てる者が 増え、絵が娯楽の一つになったためと考えら れる。
初期浮世絵のはじまりは『伊勢物語』など 木版本の挿絵で、技術的には未熟で単色摺り の摺り自体も粗い物であった。江戸時代にな ると、これらの挿絵が次第に一枚の絵として 発展し、書物の一部としてではなく純粋に絵 を楽しむための一枚絵として出版されるよう になった。後に、多色摺りが可能になり、よ り高度な彫や摺の技術が生み出された。多色 摺り浮世絵版画は、江戸大衆文化の発展とと もに、世界でも類を見ないほどの高レベルな 印刷技術へと進化していったのである。
【浮世絵の歴史】 <400>
―初期―
明暦の大火ごろから宝暦の頃までをさす。 初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色摺り(墨 摺絵)が主である。この頃、木版画の原図を 描く者を版下絵師といい、その中で絵本や浮 世草子に挿絵を描...