伊賀国について

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    資料紹介

    【中世】
     伊賀国 4 ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は 11 世紀末以降,平正盛,忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり,平家の一族・郎等が勢力を築いていた。しかし,治承・寿永の内乱は伊賀国の政治状況を一変させる。
    1184 年 (元暦 1) 7 月,伊賀の平家方勢力 (山田郡の平田冠者家継や名張郡黒田新荘下司紀七景時ら) は,この年守護として伊賀に入部した大内惟義を襲撃し,逆に鎮圧される。
    さらに平家滅亡後 20 年近く経過した 1204 年 (元久 1) 平家方の残党が伊勢,伊賀両国に蜂起し,両国守護山内首藤刑部丞経俊を追却する。
    これに対し鎌倉幕府は平賀朝雅を派遣し鎮圧するが,伊賀国では名張郡六箇山に数日間立てこもり根強い抵抗を示す (三日平氏の乱)。
    以上の事件は平家の勢力がいかに強く伊賀国に浸透していたかを物語っている。

     没落した平家一党に代わって伊賀国に勢力を築いた在地勢力は,
    国衙に近い阿拝郡服部郷を名字の地とする服部氏,
    同じく柘植村を名字の地とする柘植氏,
    名張郡黒田荘の荘官を一族で占める大江氏,
    伊賀郡大内荘の加藤氏などである。
    鎌倉中期に伊賀守護となり幕府滅亡までその任にあった千葉氏は,鎌倉時代の守護が多くそうであったように,在地の武士を被官化することはできない。

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    伊賀国について
    旧国名。 伊州。現在の三重県西部にあたる。
    【古代】
     東海道の西端に位置する下国 (《延喜式》)。
    当初は伊勢国に属し,680 年 (天武 9) に 4 郡を割いて分国したと伝える。
    《和名抄》によれば,阿拝 (あえ),山田,伊賀,名張の 4 郡 18 郷からなり,田数は 4051 町 1 段 41 歩。
    国府は上野市印代の東部に比定され,
    国分寺址はその約 3km南の同市西明寺に残る。
    一宮は上野市敢国 (あえくに) 神社。
    律令制以前より大和南部の磯城,泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植 (つげ) を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ,
    平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主 (私領主) も出現したが,
    その没落後は平安末期にかけて,東大寺,興福寺,春日社,伊勢神宮,摂関家などの所領が数多く立てられた。
    【中世】
     伊賀国 4 ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は 11 世紀末以降,平正盛,忠盛...

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