情報の歴史

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    情報の歴史
    グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近のメディア研究の成果のようだ。
    例えば、Michael E. Hobart and Zachary S. Schiffman(1998)Information Ages: Literacy, Numeracy and the Computer Revolutionは、古代メソポタミアにおける文字の誕生から、前世紀中葉の電子式コンピュータの実現までを振り返り、人間が何を情報としてきたか、そして情報とともにあった哲学の対象が何であったかを知るための見取り図である。
    さて、人文学的な意味での情報は、人間の「ことば」という活動と深く結びついている。そのことばは、人間がとらえた外的世界の事象と心的世界における想起との具体的な結びつきを解放した。ことばを媒介にすることで、人間は「今ここ」に現前しない事象や、過去の記憶を対象にすることができるようになったのだが、著者らは、そのような人間のことばのもつ力が、最初の情報革命、つまり文字の誕生によって一層大きな力をもつようになったという。文字によって記録することで、人間の記憶の限界や行動の範囲を超えた情報の流通が可能になっただけでなく、人間が扱うことができる情報そのものの厚みも増すことになったのだと。
    本書はさらにさかのぼり、文字の誕生を数の記録に求める。数の記録は抽象的な「数」以前の、一対一に事物の出現を照合する「トークン」から始まった。トークンとは、例えば、朝に牧場から羊が一頭連れ出される度に一つずつ記す印のようなものである。こうすることで、全体として何頭いるかは分からないが、夕方に羊が一頭帰ってくる度に先ほどの印を消せば、最終的に出ていった羊がすべて帰ってきたか、迷い羊がいるか(あるいは、増えているか!)が分かる。初期のトークンは、羊なら「羊トークン」、牛なら「牛トークン」、麦の束なら「麦の束トークン」というように、モノと具体的に対応していた。ところが、次第に具体的なモノとは結びつかず対象を問わず抽象的に「数」を表わす記号が誕生したのだ。そして、粘土版に刻まれた印は、数だけでなく、いよいよ文字として「ことば」を書き残すようになる。最初の文字は、ことばの単位に対応する表語文字、つまり「単語」を「表わす」文字(一般的には表意文字と呼ばれるが、実は表語文字というのが正しい)であった。
    人間の知的活動、つまり「考えること」の対象は、表語文字の登場によって森羅万象を文字として切り取ることにいつしか変化していった。人間の「考えること」の対象は分類学となった。ギリシャ時代には、人間の知的活動の抽象度は高まり、哲学的思考が生まれた。中世のスコラ哲学では、唯一の真理をたずさえた(と思われた)古典を幾重にも包み込んだ注釈学が「考えること」の中心となる。「針の上に天使が何人存在しうるか」というスコラ哲学のカリカチュアは、このような議論を真面目に続けた結果である(袋小路ではあるにしても)。
    グーテンベルグの活版印刷術は、このような注釈学のあり方に疑問を呈するきっかけとなった。印刷術によって書物が大量に頒布されるようになると、お互いの書物が矛盾した内容を伝えていることが分かってしまったのであるこれは、中世には考えられなかった出来事であった。勢い、それぞれの勝手な基準にしたがって書かかれたものなど信用できない。「

    資料の原本内容

    情報の歴史
    グーテンベルグの活版印刷術が情報革命をもたらした、というのが、古典的なメディア論の発見だとしたら、実は調べてみたらこのようなパラダイム転換的な出来事は人間の知的活動の歴史の中で何度も起きていた、というのが最近のメディア研究の成果のようだ。
    例えば、Michael E. Hobart and Zachary S. Schiffman(1998)Information Ages: Literacy, Numeracy and the Computer Revolutionは、古代メソポタミアにおける文字の誕生から、前世紀中葉の電子式コンピュータの実現までを振り返り、人間が何を情報としてきたか、そして情報とともにあった哲学の対象が何であったかを知るための見取り図である。
    さて、人文学的な意味での情報は、人間の「ことば」という活動と深く結びついている。そのことばは、人間がとらえた外的世界の事象と心的世界における想起との具体的な結びつきを解放した。ことばを媒介にすることで、人間は「今ここ」に現前しない事象や、過去の記憶を対象にすることができるようになったのだが、著者らは、そのような人間のことばのもつ力が、最初の情報革命、つまり文字の誕生によって一層大きな力をもつようになったという。文字によって記録することで、人間の記憶の限界や行動の範囲を超えた情報の流通が可能になっただけでなく、人間が扱うことができる情報そのものの厚みも増すことになったのだと。
    本書はさらにさかのぼり、文字の誕生を数の記録に求める。数の記録は抽象的な「数」以前の、一対一に事物の出現を照合する「トークン」から始まった。トークンとは、例えば、朝に牧場から羊が一頭連れ出される度に一つずつ記す印のようなものである。こうすることで、全体として何頭いるかは分からないが、夕方に羊が一頭帰ってくる度に先ほどの印を消せば、最終的に出ていった羊がすべて帰ってきたか、迷い羊がいるか(あるいは、増えているか!)が分かる。初期のトークンは、羊なら「羊トークン」、牛なら「牛トークン」、麦の束なら「麦の束トークン」というように、モノと具体的に対応していた。ところが、次第に具体的なモノとは結びつかず対象を問わず抽象的に「数」を表わす記号が誕生したのだ。そして、粘土版に刻まれた印は、数だけでなく、いよいよ文字として「ことば」を書き残すようになる。最初の文字は、ことばの単位に対応する表語文字、つまり「単語」を「表わす」文字(一般的には表意文字と呼ばれるが、実は表語文字というのが正しい)であった。
    人間の知的活動、つまり「考えること」の対象は、表語文字の登場によって森羅万象を文字として切り取ることにいつしか変化していった。人間の「考えること」の対象は分類学となった。ギリシャ時代には、人間の知的活動の抽象度は高まり、哲学的思考が生まれた。中世のスコラ哲学では、唯一の真理をたずさえた(と思われた)古典を幾重にも包み込んだ注釈学が「考えること」の中心となる。「針の上に天使が何人存在しうるか」というスコラ哲学のカリカチュアは、このような議論を真面目に続けた結果である(袋小路ではあるにしても)。
    グーテンベルグの活版印刷術は、このような注釈学のあり方に疑問を呈するきっかけとなった。印刷術によって書物が大量に頒布されるようになると、お互いの書物が矛盾した内容を伝えていることが分かってしまったのであるこれは、中世には考えられなかった出来事であった。勢い、それぞれの勝手な基準にしたがって書かかれたものなど信用できない。「考えること」の主題が、誰にとっても納得の行く客観性の追及へと移ったのは当然の流れであった。そして、デカルト以来と言われる近代科学の分析的手法の時代が訪れる。
    もっとも、本書によれば「デカルト以来」といわれる近代科学のパラダイムも、どうやらデカルト本人にとっては、正しい世界像を「写し取り」、世界を理解するための脇道のつもりだったらしい。しかし、どこを間違えたのか、あるいは間違えるべくして彼の後継者(もちろん、われわれもその後継者の末席なわけだが)が間違えたのか、幸か不幸か元来た道を見失ったまま、数百年経ってしまったようなのだ。
    ともかく、幾何学世界を代数的公式に統合することに成功したことで、西洋哲学(哲学とは「考えること」の意)は世界を写し取るための新たな分析的手法を手に入れた。そして分析的手法は、微積分法を初め、より精密な分析的道具立てを次々と手に入れる。しかし、分析的手法のさらなる発展は、世界を忠実に写し取るどころか、非常にも、それによって写し取った世界が一つの虚像にすぎないことを付きつけたのだ。「考えること」は、振り出しに戻ったかのように見えた。しかし、著者らは、そのような絶望の中にこそむしろ電子的コンピュータの意義を見出している。つまり、二十世紀中葉に出現したコンピュータは、外的世界と結びつかない抽象的な記号の操作に、机上の空論でも単なる知的遊戯でもない実用上の役割を与えることになったのだという。
    このような情報の歴史の中では、今われわれの目の前にある情報技術も、人間が今のところ最新の道具立ての一つなのだ。ところが、同時に「考えること」の中身、つまり情報のあり方も変わってきたことに目を向けなければならない。
    情報技術の刷新が情報のあり方を変えたのか、あるいは情報のあり方にあわせて情報技術が刷新されてきたのかは分からない。この順序を明示的に逆にとらえ、情報技術の刷新に先立ち、実は人間の知的活動に情報量の爆発が内在しているのだと指摘する論者もいる。メディア論のトロント学派を自認するRobert Loganなどは、The Fifth Langauge(1995)の中で、その傾向を主張する。こういう立場からは、文字が誕生する前に、人間の知的活動における情報は飽和状態にあり、もはや口承で維持しきれないほどだったというのだ。そして、自然の結末として文字の誕生をもたらしたのだと。情報技術も産み出されるべくして産み出されたものなのだ。
    情報技術はここで打ち止めでもないし、ましてや情報のあり方は技術によって決まるものでもないとしたら、これからの100年は、情報の歴史の中で、どのようなひとコマをわれわれに見せてくれるのだろうか。
    (2001年1月22日)
    情報提供先 -> http://www.glocom.ac.jp/personnel/kmmr/information-ages.html

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