レスリー・ファインバーグ『トランスジェンダーの解放』

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    沈黙を破って  レスリー・ファインバーグ『トランスジェンダーの解放』(Leslie Feinberg, Transgender Liberation, 1992)より
     このパンフレットは、今はまだ一般的な名称を与えられていない、歴史的な抑圧の発生について追う試みである。ここで語られるのは、人工の、というより、「男」により造られた、性別の境界に挑んだ人々の物語である。
     ジェンダーとは、自己表現であり、解剖学における性ではない。  セックスとジェンダーは同じであると、人である限り、生まれてこのかた言われ続ける。男は「男らしく」、女は「女らしく」と。ピンクは女の子のものであり、青は男の子のものである。それが「自然」だと。しかし、アメリカにおいて、世紀の変わり目には、青は女の子の色であり、ピンクは男の子の色であると思われていたこともあった。ジェンダーの規則は単純で堅固であるが、恒久的なものでも、自然のものでもない。移り変わる社会的概念でしかないのである。
     にもかかわらず、「男らしい」男が、男と思われ、女でその外観が「女らしい」と思われる枠の中に収まっている者が、女だと疑いなく認められるのである。問題は、この狭い社会的制約に適合しない人々がたくさん、嫌がらせと暴力の生け贄になってきたことである。  ここから問題が浮かび上がる。だれが、「規則」がどうあるべきかを決めているのか? なぜ、人が自己表現の故に罰せられなければいけないのか?
     古代の共同社会がトランスジェンダーに、高い地位を与えていたことを知るならば、現代人は驚くことだろう。近代になり台頭してきた支配階級は、かつて自然と思われていたものを自然でないものにするために、流血を伴う示威を行った。その支配階級が社会に流布した偏見が、今日に至るまで残っているのである。  しかし、社会不適応に対して、厳しい制裁が行われたような社会においても、トランスジェンダーの大部分は、その本性を変えることができなかったし、変える意思も持たなかった。明らかなのは、女性にも男性にも、さまざまなあり方がある、ということである。自然に存在するものは、すべて連続していて切れ目がないのである。  我々を表すために用いられる用語の多くは、一面しか表さない烙印のようなものである。
     私が十代の頃、バッファローにある工場で働いていたとき、私のような女性は「おとこおんな」と呼ばれた。工場労働者の俗語で「おとこおんな」は大抵、レズビアンのことを指すが、性的指向ではなくジェンダー表現の面から、そう言われていたのである。  広い意味での「ジェンダーの無法者」を表す言葉には他にも、トランスヴェスタイト、トランスセクシュアル、ドラァグクイーン、ドラァグキング、クロスドレッサー、ブル・ダガー、ストーン・ブッチ、アンドロジナス、ディーゼル・ダイク、ベルダシュ(ヨーロッパの植民者の言葉である:原註)がある。*
     我々は好んでこういう言葉を選んだわけではない。こういう言葉はふさわしくない。プライドを表す名称、我々自身を讃える言葉なしに、抑圧と闘うことは困難である。  近年、ジェンダーやトランスジェンダーのコミュニティと呼ばれるものが生まれてきた。我々のコミュニティにはいろいろなカテゴリの人がいて、さまざまな異なるやり方で自らの名称を決めている。トランスジェンダーの人々は、自らのことを規定し名称を選択する権利を要求している。このパンフレットに使われている言葉は、ジェンダーのコミュニティが統合され組織されると、間もなく時代遅れになるかもしれない。すばらしい悩み

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    資料の原本内容

    沈黙を破って  レスリー・ファインバーグ『トランスジェンダーの解放』(Leslie Feinberg, Transgender Liberation, 1992)より
     このパンフレットは、今はまだ一般的な名称を与えられていない、歴史的な抑圧の発生について追う試みである。ここで語られるのは、人工の、というより、「男」により造られた、性別の境界に挑んだ人々の物語である。
     ジェンダーとは、自己表現であり、解剖学における性ではない。  セックスとジェンダーは同じであると、人である限り、生まれてこのかた言われ続ける。男は「男らしく」、女は「女らしく」と。ピンクは女の子のものであり、青は男の子のものである。それが「自然」だと。しかし、アメリカにおいて、世紀の変わり目には、青は女の子の色であり、ピンクは男の子の色であると思われていたこともあった。ジェンダーの規則は単純で堅固であるが、恒久的なものでも、自然のものでもない。移り変わる社会的概念でしかないのである。
     にもかかわらず、「男らしい」男が、男と思われ、女でその外観が「女らしい」と思われる枠の中に収まっている者が、女だと疑いなく認められるのである。問題は、この狭い社会的制約に適合しない人々がたくさん、嫌がらせと暴力の生け贄になってきたことである。  ここから問題が浮かび上がる。だれが、「規則」がどうあるべきかを決めているのか? なぜ、人が自己表現の故に罰せられなければいけないのか?
     古代の共同社会がトランスジェンダーに、高い地位を与えていたことを知るならば、現代人は驚くことだろう。近代になり台頭してきた支配階級は、かつて自然と思われていたものを自然でないものにするために、流血を伴う示威を行った。その支配階級が社会に流布した偏見が、今日に至るまで残っているのである。  しかし、社会不適応に対して、厳しい制裁が行われたような社会においても、トランスジェンダーの大部分は、その本性を変えることができなかったし、変える意思も持たなかった。明らかなのは、女性にも男性にも、さまざまなあり方がある、ということである。自然に存在するものは、すべて連続していて切れ目がないのである。  我々を表すために用いられる用語の多くは、一面しか表さない烙印のようなものである。
     私が十代の頃、バッファローにある工場で働いていたとき、私のような女性は「おとこおんな」と呼ばれた。工場労働者の俗語で「おとこおんな」は大抵、レズビアンのことを指すが、性的指向ではなくジェンダー表現の面から、そう言われていたのである。  広い意味での「ジェンダーの無法者」を表す言葉には他にも、トランスヴェスタイト、トランスセクシュアル、ドラァグクイーン、ドラァグキング、クロスドレッサー、ブル・ダガー、ストーン・ブッチ、アンドロジナス、ディーゼル・ダイク、ベルダシュ(ヨーロッパの植民者の言葉である:原註)がある。*
     我々は好んでこういう言葉を選んだわけではない。こういう言葉はふさわしくない。プライドを表す名称、我々自身を讃える言葉なしに、抑圧と闘うことは困難である。  近年、ジェンダーやトランスジェンダーのコミュニティと呼ばれるものが生まれてきた。我々のコミュニティにはいろいろなカテゴリの人がいて、さまざまな異なるやり方で自らの名称を決めている。トランスジェンダーの人々は、自らのことを規定し名称を選択する権利を要求している。このパンフレットに使われている言葉は、ジェンダーのコミュニティが統合され組織されると、間もなく時代遅れになるかもしれない。すばらしい悩みである。
     このパンフレットに使われている用語は、アメリカの労働者や抑圧されている人々のほとんどが、偏狭や暴力と闘う道具にすることができるよう、容易に理解できるものを選んだつもりである。我々を結びつけ、直面している抑圧の中で類似する点を捉えるための言葉を、結果的に不適当なものであっても、探したつもりである。同様に、代名詞についても、二つの性別しか許容しない言語の中で、明確さと慎重さの両方を有するように、注意深く配慮したつもりである。
     偉大な社会運動は、共通の言語を創り出す。より広い理解を勝ち取る道具を。しかし、進歩的な運動からさえ、我々は締め出されて来たのである。  1969年、ニューヨーク市のストーンウォールでの戦闘は、近年のレズビアンやゲイの運動の発端となったが、それを先導していたのは女装のゲイだった。  しかし、レズビアンとゲイが改革運動を勝ち抜くためには、その闘争を共にしなければ改革への強い力を得ることはできないことを、膝を突き合わせて向き合い理解しあわなければならなかった。同様に、トランスジェンダーのコミュニティも、ゲイやレズビアンの運動に対して、同じような理解に到達する必要がある。
     たいていの人は、男性的な女性はレズビアンであり、女性的な男性はゲイだと思っている。これは誤解である。レズビアンやゲイがすべて性別を越境するわけではない。トランスジェンダーの女性又は男性がすべてレズビアンやゲイであるわけではない。トランスジェンダーは、レズビアンやゲイのコミュニティの一部であるわけではない。実際には二つのコミュニティは、一部が部分的に重なる、二つの円のような関係にある。  そして、この二つの活発なコミュニティの直面する抑圧は決して同じものではない。しかし、共通の敵というものも存在する。ジェンダーフォビアは、人種差別や性差別、レズビアンやゲイに対する偏見と同じように、我々を分断し続けている。連帯感によってこそ、闘う力を増すことが出来る。
     連帯は、どのように、またなぜ抑圧が存在するのかを、また誰が利益を受けているのかを理解することにより、打ち立てられる。人類の社会における革命的な変革こそが、不公正や偏見、不寛容をなくすことができる。これが我々の見解である。  このような闘争を打ち立てるために、歴史における排除のパターンを明らかにし、誇りをもってであるか貶めながらであるかはともかく、ベルダシュの道をあるいはトランスジェンダーの道を歩んできた男女が、普通に存在していたことを示す。  我々を見よ。生きるために闘ってきた我々を。声を耳にしろ。耳を傾けられるために闘ってきたのだ。
    訳注:ストーン・ブッチstone butchは、体にも触らせないような「バリタチ」のレズビアン。 ブル・ダガーbull dagger、ディーゼル・ダイクdiesel dykeは、いかつい服装でバイクを乗りこなすような男役のレズビアン。 なお、クロスドレッサーcross dresserが他者から与えられた名称であると指摘されているが、トランスヴェスタイトtransvestiteに対して、当事者自ら、自らのことを表す用いる場合が通例である。
     レズリー・ファインバーグは、レズビアンを経て、FTMのトランスジェンダーとしてカムアウトし、マルクス主義の立場からトランスジェンダーの歴史を語る。主著に自伝的小説『ストーン・ブッチ・ブルース』(Stone Butch Blues, 1993)、『トランスジェンダー戦士』(Transgender Warriors, 1996)、『トランス・リベレーション』(Trans Liberation, 1998)がある。  本書は、わずか20ページ余りのパンフレットであるが、アメリカにおける90年代のトランスジェンダーの運動の発端において、広く読まれたものである。  この後、西洋の古代から近代にわたる、トランスジェンダーたちの苦難に満ちた歴史が語られる。少なくとも西洋近代においては、性別は二つの他はなく、トランスジェンダーの存在は公には存在しなかった。それゆえ自らのプライド、アイデンティティの根拠となる文化も、歴史も存在していなかった。ファインバーグがこの、語られなかった者たちの歴史に耳を傾けるのは、何よりもトランスジェンダーとしての誇りの回復のためである。  彼の歴史観には多少ドグマチックなところもある。しかし、性別の二分法を超えて、トランスジェンダーが自ら決めた名称を名乗り、自らのプライドをもって立ち上がることを求めた、誇り高き宣言の息吹きに触れてもらいたい。  彼の第一の関心は、自らを表す呼称をどうするか、ということである。他者により課せられた呼称を捨て、自らのプライドを表す言葉として、「トランスジェンダー」を選択する。この点、「性同一性障害」という医療やマスコミにより与えられた呼称を考える上で、手がかりとなるのではないか。
    訳・解説:筒井真樹子
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/ar002.htm

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