性別の法的基準について

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    性別の法的基準について
    ※この原稿は、本年1月に書いた、「 手術要件について 」を大幅に増補したものである。  巷で言われている、戸籍上の性別表記の訂正もしくは変更問題について、これを立法により解決することは、直接的または間接的に、性別を分ける基準を法定することである。衆知の通り、現在のところ、この国の法律で、性別による取扱いが異なるものはあっても、性別とは何か、性別を分ける基準はなにかを明文で規定したものはない。そこに、いわゆる「性転換法」、すなわち性同一性障害を持つ者等に、公的書類上の性別表記の変更を認める法律を制定するにあたっては、その適用を認めるべきものと認めるべきでないものを分ける基準が不可欠になる点で、法的な意味での「性別とは何か」という問いに、立法者の側が明確な出すことが避けて通れない。  この点、私は法的な意味での「性別とは何か」という問いには論評してこなかった。これは以下の理由による。公的書類の記載事項には、生年月日のような変更不可能な事実を公証する役割をもつ事項と、住所地のような、変更可能な事実を公証する役割をもつ事項がある。後者に関して、住所地については、憲法上の条文で言えば、居住移転の自由(22条1項)により、変更することは可能である。性別に関しても、性別に関する自己決定権により変更可能であること、また変更後の性別について、自己情報訂正請求権(情報プライバシー権)に基づいて訂正請求できること、というのが私の考えの骨子であり、この中で客観的な意味での「性別」を区別する基準は問題にならない、と考えていたからである。
     もっとも、私見のような考え方は一般的でなく、戸籍上の性別はむしろ前者のような、変更不可能な事実を公証する記載事項、と考えられている。そして、性別表記訂正論者も、むしろこの客観的な意味での、法律上の「性別」を再定義することにより、訂正もしくは変更を認めさせる方向に動いているようである。  さらに、私としても現時点で性別表記の全面的廃止や、あるいは(私はこの立場には与しないが)完全自己申告による性別表記の変更は困難と考えている。ここで、何らかの要件を満たす者に限って、表記の訂正もしくは変更を認めるとなると、何らかの形で法的な意味での性別を区別する基準を提出せざるを得ない。  この点現在、高裁レベルの下級審判例であるが、法的な意味での性別は、性染色体により決定される、とされている(名古屋高判昭和54年11月8日、東京高判平成12年2月9日)。将来の遺伝子治療の如何によってはわからないが、現在の科学技術によっては、性染色体の改変は全く不可能である。そしてこの基準をとる限り、性同一性障害をもつ者の性別の変更は、全く不可能、ということになる。  一方、性同一性障害に関する現在の医学的知見の、最大公約数的なところを見ると、性別は性自認(gender identity)、つまり心理学的に判断される性別を中心に、その者のもつ社会的役割や服装などの外見、嗜好などから総合的に判断すべきであり、染色体や外性器のような解剖学的要素により判断すべきではない、というのが多数説になっている。
     そして、いわゆるTS・TG(性別適合手術を必要とする者が前者、そうでない者が後者)の区別を問わず、性同一性障害とは、かかる心理学的な性別と、解剖学的な性別が一致しない状態のことをいうことは、異論のないところである。ここで、性別適合手術(性転換手術)をはじめとする医療処置は、心理学的性別に、解剖学的性別(の一部)を適合させる処置として、行われているものに他

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    性別の法的基準について
    ※この原稿は、本年1月に書いた、「 手術要件について 」を大幅に増補したものである。  巷で言われている、戸籍上の性別表記の訂正もしくは変更問題について、これを立法により解決することは、直接的または間接的に、性別を分ける基準を法定することである。衆知の通り、現在のところ、この国の法律で、性別による取扱いが異なるものはあっても、性別とは何か、性別を分ける基準はなにかを明文で規定したものはない。そこに、いわゆる「性転換法」、すなわち性同一性障害を持つ者等に、公的書類上の性別表記の変更を認める法律を制定するにあたっては、その適用を認めるべきものと認めるべきでないものを分ける基準が不可欠になる点で、法的な意味での「性別とは何か」という問いに、立法者の側が明確な出すことが避けて通れない。  この点、私は法的な意味での「性別とは何か」という問いには論評してこなかった。これは以下の理由による。公的書類の記載事項には、生年月日のような変更不可能な事実を公証する役割をもつ事項と、住所地のような、変更可能な事実を公証する役割をもつ事項がある。後者に関して、住所地については、憲法上の条文で言えば、居住移転の自由(22条1項)により、変更することは可能である。性別に関しても、性別に関する自己決定権により変更可能であること、また変更後の性別について、自己情報訂正請求権(情報プライバシー権)に基づいて訂正請求できること、というのが私の考えの骨子であり、この中で客観的な意味での「性別」を区別する基準は問題にならない、と考えていたからである。
     もっとも、私見のような考え方は一般的でなく、戸籍上の性別はむしろ前者のような、変更不可能な事実を公証する記載事項、と考えられている。そして、性別表記訂正論者も、むしろこの客観的な意味での、法律上の「性別」を再定義することにより、訂正もしくは変更を認めさせる方向に動いているようである。  さらに、私としても現時点で性別表記の全面的廃止や、あるいは(私はこの立場には与しないが)完全自己申告による性別表記の変更は困難と考えている。ここで、何らかの要件を満たす者に限って、表記の訂正もしくは変更を認めるとなると、何らかの形で法的な意味での性別を区別する基準を提出せざるを得ない。  この点現在、高裁レベルの下級審判例であるが、法的な意味での性別は、性染色体により決定される、とされている(名古屋高判昭和54年11月8日、東京高判平成12年2月9日)。将来の遺伝子治療の如何によってはわからないが、現在の科学技術によっては、性染色体の改変は全く不可能である。そしてこの基準をとる限り、性同一性障害をもつ者の性別の変更は、全く不可能、ということになる。  一方、性同一性障害に関する現在の医学的知見の、最大公約数的なところを見ると、性別は性自認(gender identity)、つまり心理学的に判断される性別を中心に、その者のもつ社会的役割や服装などの外見、嗜好などから総合的に判断すべきであり、染色体や外性器のような解剖学的要素により判断すべきではない、というのが多数説になっている。
     そして、いわゆるTS・TG(性別適合手術を必要とする者が前者、そうでない者が後者)の区別を問わず、性同一性障害とは、かかる心理学的な性別と、解剖学的な性別が一致しない状態のことをいうことは、異論のないところである。ここで、性別適合手術(性転換手術)をはじめとする医療処置は、心理学的性別に、解剖学的性別(の一部)を適合させる処置として、行われているものに他ならない。
     ここで、理論上は、法律上の性別の区別の基準、すなわち戸籍上の性別表記の訂正の基準は、心理学的な性別を中心として決められるべきであり、性染色体や外性器のような解剖学的基準によるべきことではない、ということになる。そして、私が性別表記の訂正の基準として、性別適合手術を要求すべきでない、と主張する場合に提出する、法的な性別の区別の基準も、以上の医学的知見と異なるところはない。実務上は、性同一性障害である旨の診断があること、ということになる。  他方、現在多数派を占めるに至りつつある、戸籍上の性別表記の訂正の要件として、性別適合手術を求める者は、少なくともこの点では、法的な意味での「性別」を、外性器により決定されるべき、と考えているといえる。  前述の通り、司法府はまだ確定したものとはいえないものの、法的性別を性染色体により決する、と考えているようである。そして、これによれば、性同一性障害をもつ者に関しては、およそ性別表記の訂正は不可能である。  そこで、上記の立場をとる者は、一般大衆に広く受け入れられているところの、性別は外性器により決定される、という基準を、かかる一般大衆の支持を得る形で、立法により定立するという「民主的な」手段に訴えることにより、性別適合手術を受けた者に限って解決するというのが、これらの者のとる政治的戦略である。  しかし、このような手段をとることは、性同一性障害の自己否定につながりはしないか。性同一性障害である状態とは、繰り返すが、心理的に認識される性別と、解剖学的な性別が一致しない状態のことをいう。そして、大多数の性同一性障害をもつ者は、いわゆるTS・TGの区別に関わらず、心理的な性別に沿って生きることを望んでいる。この点、当事者の側から、性別の基準は外性器により決定される、と主張することは、この願望との間に矛盾をきたすことになる。
     もちろん、性別適合手術を済ませた者の立場からすれば、外性器の転換は済ませているのであるから、性別の法的基準が外性器に求められても、問題はない、ということであろう。しかし、内性器や性染色体などは、依然もとの性別のもののままであり、外性器の存在がなぜ特権化されなければならないか、十分な説明がなされているとは言い難い。言い換えれば、戸籍訂正の要件に手術を必要とするとする論者は、自ら否定したい解剖学的な意味での性別や、自らの望む心理学的な性別をさておいて、外性器の形態に基づいて性別を決定すべき、ということの積極的な理由を示す義務がある。  この点、当然のことながら、外性器により性別を決定するという基準は、古今東西に亘って通用してきた、デファクト・スタンダード(事実上の標準)であり、それには理由云々でなく、この標準に従う他に(TS当事者の)救済が不可能である、との反論があろう。  しかし、第一に、下級審判例のものであるが、現に通用しつつある法的な性別の基準は、性染色体であって、外性器ですらない。法律上、性染色体ではなく、外性器を基準とすることの合理性は、積極的に説明されてしかるべきである。この点、現在の医療技術では性染色体の改変は不可能であるところ、裁判所がこれを基準にとったのは、法律関係の安定性のため性別の不可変性を求めたものであるが、性別を法的に変えることを認めるか否かという点に関しては、外性器を基準とすることが特別に優れているわけではない。
     次に第二に、すでに医学、心理学、社会学等の専門領域において、心理的・社会的性別の存在が明らかにされているのも関わらず、あえて外性器という基準をとるという理由は、積極的に説明されてしかるべきである。この点、ドイツやスウェーデン等の、比較的早く(1980年代初頭)に「性転換法」が実現した国々では、手術が要件となっているが、立法当時においては一般国民に関してだけでなく、専門領域においても心理的・社会的性別の存在が広く認知されていなかった可能性がある。  ここで思うに、立法的解決において、法的な意味での性別の基準をどこに求めるべきか、ということに関しては、やはり心理的・社会的性別を中心として判断する、ということが中心にならざるを得ないと考える。  もちろん、このことは専門家や当事者のコミュニティはともかくとして、一般的に理解されている性別の基準とは、乖離があることは認めなければならない。そのため、この問題に関わる当事者や専門家、支援者の責務として、教育や言論活動を通じて、性別は解剖学的なそれでなく、心理的・社会的性別を基準として考えるべきであるということを広めることに関しては、努力を惜しむべきではない。立法に関する直接または間接の政治運動においても当然である。
     なるほど、国民主権原理のもとでは、立法は民意の反映である。従って、デファクト・スタンダードである外性器という基準が「民意の反映」である、という立論には頷ける。  しかし、一方で、立法は将来のあるべき民意を先導する役割があることも見逃してはならない。現在でもなお、男性優位の社会構造はデファクト・スタンダードである。しかし、男女雇用機会均等法・男女共同参画社会基本法の制定をみて、これらの法規が将来のあるべき民意を先導していることを否定することは出来ない。  いわゆる「性転換法」は、当事者の救済を図るものであることはもちろんのことであるが、同時に21世紀における性別を定義するための、先導者としての役割が課せられている。私見においては、社会的性別(ジェンダー)に関する自己決定ということになり、これについては別論を立てているが、他の見解もあろうから、今後さまざまな立場からの議論が盛り上がることを願わずにいられない。  この点、TS・TGを問わず、当事者の主観的願望はもちろん尊重されるべきである。しかし、性別というものの基準をどう社会に向かって提案していくか、という構想力が、戸籍訂正問題に関わるすべての者に問われている。そして、その答えが、外性器を基準とすることがデファ...

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