竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』

閲覧数5,251
ダウンロード数17
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』
     これはアイについての物語かも知れない。「私」という意味の「アイ」であり、「アイデンティティ」の頭文字としてのアイ。すなわち、「私」について語ることが、「愛」について語ることではある。  『愛について』は、「愛」の不可能性かつ「私」の不可能性の物語である。「アイ」のくるおしさに満ちた書。。。
     愛においてわたしは、わたしがもっていないものを与える。なぜならあなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在しているから。だからわたしの愛は、いつもわたし自身の愛から疎外されている。 (p.109)
     ラカンによれば、「欲望はつねに《他者》の欲望である」。言語の網の目の中にいる「私」は、自ら言語を所有することによって、「愛」の主体となることも、言語を否定することによって、「愛」を所有することもできない。しかしながら、それは「私」の「愛」が「あなた」に向かって開かれていることを意味しない。「愛」は常に不可能なまま、「わたし」と「あなた」の間を反復し続ける。  それゆえ、「愛」は永遠に経験されることはないだろう。経験されることのないまま、無限の反復運動を続ける。しかしながら、私たちはそれを「愛」と名づける。名づけることによって、「愛」に実体を与えようとする。「ファルス」(男根)の名の下に。ファルスが特権化されるとしたら、それは「愛」に生殖の流れを表象させるからである。「正しい愛」は、社会通念や法によって正当化されているから正しいのでなく、愛の困難さを知ることから免れているから、正しい。  しかしながら、「正しくない愛」によって、愛が経験されるわけではない。制度上の差別化によって、法は、「私」という場に、「私」特有の形態をとって現れる。これによって「愛」が経験されることはないのである。  筆者のおこなうものは、異性「愛」が社会的に構築されたものであるとして、糾察することではない。なぜなら、異性愛は、そもそも不可能だからである。それゆえ、筆者は同性愛を特権化することもない。同性愛もまた、不可能だからである。ただ、その不可能性と対峙すること、それが唯一残された、倫理的態度である。  おおよそ、異性愛主義の批判は、異性愛主義に対し同性愛主義を対置し、異性愛主義が異性愛を特権化するのと同様に、同性愛を特権化してきた。そのような批判は、一見異性愛主義を相対化しているように見えて、異性愛主義者が自らを特権化するのと同様に、同性愛主義の特権を問うことに失敗している。なぜならかれらもまた「私」を問わないからである。  「私」を問わない批判は、その不可能な「私」に気づくことなく「私」を表象する。そして、「私」は「アイ」の名の下に、「私」を支配する。
    *           *           *
     であるからこそ、筆者は「私」の政治である、アイデンティティの政治(ポリティクス)について問う。アイデンティティの政治とは、いわゆる多数派に対して、いわゆる少数派が独自のアイデンティティを主張し、自らを名づけることである。筆者によれば、「区別でなく差別化されてきたセクシュアリティ、あるいはクローゼットの中に隠さざるを得なかったセクシュアリティを、みずからの『真正さ』として主張し、『普通の生活』を要求する」ものである。  しかし、「これまで否定的なしるしがつけられていた名づけをちかって、その名づけを換骨奪胎するために行う『アイデンティティの政治』も、その名づけが既存の抑圧的な〈言語〉による定義にとどまっているかぎり、そ

    タグ

    資料の原本内容

    竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』
     これはアイについての物語かも知れない。「私」という意味の「アイ」であり、「アイデンティティ」の頭文字としてのアイ。すなわち、「私」について語ることが、「愛」について語ることではある。  『愛について』は、「愛」の不可能性かつ「私」の不可能性の物語である。「アイ」のくるおしさに満ちた書。。。
     愛においてわたしは、わたしがもっていないものを与える。なぜならあなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在しているから。だからわたしの愛は、いつもわたし自身の愛から疎外されている。 (p.109)
     ラカンによれば、「欲望はつねに《他者》の欲望である」。言語の網の目の中にいる「私」は、自ら言語を所有することによって、「愛」の主体となることも、言語を否定することによって、「愛」を所有することもできない。しかしながら、それは「私」の「愛」が「あなた」に向かって開かれていることを意味しない。「愛」は常に不可能なまま、「わたし」と「あなた」の間を反復し続ける。  それゆえ、「愛」は永遠に経験されることはないだろう。経験されることのないまま、無限の反復運動を続ける。しかしながら、私たちはそれを「愛」と名づける。名づけることによって、「愛」に実体を与えようとする。「ファルス」(男根)の名の下に。ファルスが特権化されるとしたら、それは「愛」に生殖の流れを表象させるからである。「正しい愛」は、社会通念や法によって正当化されているから正しいのでなく、愛の困難さを知ることから免れているから、正しい。  しかしながら、「正しくない愛」によって、愛が経験されるわけではない。制度上の差別化によって、法は、「私」という場に、「私」特有の形態をとって現れる。これによって「愛」が経験されることはないのである。  筆者のおこなうものは、異性「愛」が社会的に構築されたものであるとして、糾察することではない。なぜなら、異性愛は、そもそも不可能だからである。それゆえ、筆者は同性愛を特権化することもない。同性愛もまた、不可能だからである。ただ、その不可能性と対峙すること、それが唯一残された、倫理的態度である。  おおよそ、異性愛主義の批判は、異性愛主義に対し同性愛主義を対置し、異性愛主義が異性愛を特権化するのと同様に、同性愛を特権化してきた。そのような批判は、一見異性愛主義を相対化しているように見えて、異性愛主義者が自らを特権化するのと同様に、同性愛主義の特権を問うことに失敗している。なぜならかれらもまた「私」を問わないからである。  「私」を問わない批判は、その不可能な「私」に気づくことなく「私」を表象する。そして、「私」は「アイ」の名の下に、「私」を支配する。
    *           *           *
     であるからこそ、筆者は「私」の政治である、アイデンティティの政治(ポリティクス)について問う。アイデンティティの政治とは、いわゆる多数派に対して、いわゆる少数派が独自のアイデンティティを主張し、自らを名づけることである。筆者によれば、「区別でなく差別化されてきたセクシュアリティ、あるいはクローゼットの中に隠さざるを得なかったセクシュアリティを、みずからの『真正さ』として主張し、『普通の生活』を要求する」ものである。  しかし、「これまで否定的なしるしがつけられていた名づけをちかって、その名づけを換骨奪胎するために行う『アイデンティティの政治』も、その名づけが既存の抑圧的な〈言語〉による定義にとどまっているかぎり、そこには『還元不可能な』他者は現れない。また『アイデンティティの政治』が『告白』と同様に、聞き手を支配的な言説の内部にとどまらせているかぎり、たとえ聞き手が語り手を『理解』し、『語り手』に同情したとしても、支配権力の配置は変わらない」(p.222)。  それゆえ、筆者はアイデンティティの形成に言語がどのように関わっているかを問う。アイデンティティが「自己承認(わたしが~である)ことによって成り立っているだけでなく、自己否認(わたしは~でない)によって成り立っている」点である。女は女であるから女であると同時に、男でないから女である。もっと正確に言えば、たとえば女は男であるかもしれないところ、男であることを否定することによって、女たりうる。アイデンティティ内部に抱える「おぞましきもの」を言語化して放出する限りにおいて、「私」とはなにかが表象されうる。(ちなみに、差別主義者は、おぞましき差別の対象を知らないのでなく、知っているがゆえに、それを差別的言論という形で言語化する)  従って、「人は、語ってはいても、自分が何を語っているのかは知らない」ことになる。  それゆえ、アイデンティティの政治は、「アイ」に向き合うことはない。「アイ」に向き合うには、アイデンティティは脱構築されなければならない。
     アイデンティティの脱構築は、「アイデンティティの否定」ではなく、わたしは誰かと問いかけることによって、「アイデンティティの過剰さに対峙する」ことである。それは慣れ親しんだひとつの文の体制のなかでわたしは何かと決定することではないので、そこには、(他者を否定するのであれ、肯定するのであれ)他者と同じ体制のなかにいることの、共存の安堵感はない。アーレントの言う、親密さの領域の同質性はない。知っている事柄は決定の対象ではないので、決定は、見知らぬもの、不気味なもの、錯綜しているもの、真の意味で誰とも享有できないものと向き合うことである。(p.258)
     愛の愉しみとは、「他者」の存在を知らなくてもよい愉しみである。愛の苦しみとは、「他者」と向き合う苦しみである。
    (トランス)ジェンダー・アイデンティティの脱構築についてはまた日を改めて・・・
    竹村和子『愛について・アイデンティティと欲望の政治学』 岩波書店 2002年 ISBN4-00-022011-X
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/br004.htm

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。