科学社会学の成立と展開

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    科学社会学の成立と展開 --客観主義的科学観から相対主義的科学観へ
    はじめに--客観主義 vs 相対主義
     R・J・バーンスタインは、『科学・解釈学・実践--客観主義と相対主義を越えて』で、 哲学、倫理学、人類学、さらには社会学において今世紀になされてきた多くの論争に通底する ものとして「客観主義と相対主義の対立」があると指摘している (1) 。バーンスタインが言 うところの「客観主義」とは、
      不変にして非歴史的な母型ないし準拠枠といったものが存在し(あるいは存在せねばなら ず)、それを究極的なよりどころにして、合理性・知識・真理・実在・善・正義などの本性を 決定することができるとする、そうした基本的な確信…… (2)
    を支えている考え方であり、一方「相対主義」とは、
      合理性・真理・実在・正義・善・規範など、そのいずれであれ、これまで哲学者たちが最 も基本的なものと考えてきた概念をひとたび吟味しはじめると、そうした概念はすべて、つま るところ特定の概念図式・理論的な準拠枠・パラダイム・生活形式・社会・文化などに相対的 なものとして理解されねばならない、ということを認めざるをえなくなる…… (3)
    とする考え方である。そして、客観主義と相対主義という対立の根源には「デカルト的不安」、 すなわち、
      われわれの存在の支柱とか、われわれの知識の確固たる基礎とかいったものが存在するの か、それとも、狂気や知的ないしは道徳的な混乱によってわれわれを包み込んでしまう暗闇の 力から逃げることができないのか (4)
    という不安が潜在しているとバーンスタインは指摘している。実際、バーンスタインが指摘す るような対立図式が現代の思想状況を最も根底的に規定している基軸であろうし、とりわけ客 観主義の側に立つ人々が、デカルト的不安にさいなまれていることも確かであろう。  そして、この対立図式はバーンスタインが前記著作の第Ⅱ章「科学・合理性・共約不可能性」 で詳細に分析しているように、クーンの『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutions (5) 以降の科学や科学知識めぐるさまざまな論議--科学論--でもはっきり とみてとることができる。さらには、本章で主題とする科学社会学(sociology of science) にもみることができるのである。さて、科学社会学とは何か。
    一 科学社会学とは何か
      文部省が募集し交付する科学研究補助金(いわゆる科研費)を申請する際に参照する「系 ・部・分科・細目表」では、複合領域の中に「科学史(含科学社会学・科学技術基礎論)」と いう項目があって、科学社会学は我が国の学界でも一応の市民権を獲得していることになって いる。事実、書名の一部に「科学社会学」を含んだ書物も何冊か出版されている (6) 。しか し、ほんの一握りの研究仲間を除けば、我が国では現在でも科学社会学という学問分野が学界 で、いわんや世間一般で、認知されているとは言いがたい。授業科目として「科学社会学」を 設けている大学は、筆者の勤務先を含めてもほんの数例を数えるのみではなかろうか。   科学社会学とは、「科学という営みないしは現象を社会学的に分析し、科学と社会の相互 作用を研究する学問分野」とひとまず定義することができよう。換言すれば、科学社会学は、 科学を単に自然に関する体系的知識と捉えるのではなく、社会的・人間的営みとして捉えよう と努める。したがって、科学社会学にあっては、科学者集団の社会的構造

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    科学社会学の成立と展開 --客観主義的科学観から相対主義的科学観へ
    はじめに--客観主義 vs 相対主義
     R・J・バーンスタインは、『科学・解釈学・実践--客観主義と相対主義を越えて』で、 哲学、倫理学、人類学、さらには社会学において今世紀になされてきた多くの論争に通底する ものとして「客観主義と相対主義の対立」があると指摘している (1) 。バーンスタインが言 うところの「客観主義」とは、
      不変にして非歴史的な母型ないし準拠枠といったものが存在し(あるいは存在せねばなら ず)、それを究極的なよりどころにして、合理性・知識・真理・実在・善・正義などの本性を 決定することができるとする、そうした基本的な確信…… (2)
    を支えている考え方であり、一方「相対主義」とは、
      合理性・真理・実在・正義・善・規範など、そのいずれであれ、これまで哲学者たちが最 も基本的なものと考えてきた概念をひとたび吟味しはじめると、そうした概念はすべて、つま るところ特定の概念図式・理論的な準拠枠・パラダイム・生活形式・社会・文化などに相対的 なものとして理解されねばならない、ということを認めざるをえなくなる…… (3)
    とする考え方である。そして、客観主義と相対主義という対立の根源には「デカルト的不安」、 すなわち、
      われわれの存在の支柱とか、われわれの知識の確固たる基礎とかいったものが存在するの か、それとも、狂気や知的ないしは道徳的な混乱によってわれわれを包み込んでしまう暗闇の 力から逃げることができないのか (4)
    という不安が潜在しているとバーンスタインは指摘している。実際、バーンスタインが指摘す るような対立図式が現代の思想状況を最も根底的に規定している基軸であろうし、とりわけ客 観主義の側に立つ人々が、デカルト的不安にさいなまれていることも確かであろう。  そして、この対立図式はバーンスタインが前記著作の第Ⅱ章「科学・合理性・共約不可能性」 で詳細に分析しているように、クーンの『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutions (5) 以降の科学や科学知識めぐるさまざまな論議--科学論--でもはっきり とみてとることができる。さらには、本章で主題とする科学社会学(sociology of science) にもみることができるのである。さて、科学社会学とは何か。
    一 科学社会学とは何か
      文部省が募集し交付する科学研究補助金(いわゆる科研費)を申請する際に参照する「系 ・部・分科・細目表」では、複合領域の中に「科学史(含科学社会学・科学技術基礎論)」と いう項目があって、科学社会学は我が国の学界でも一応の市民権を獲得していることになって いる。事実、書名の一部に「科学社会学」を含んだ書物も何冊か出版されている (6) 。しか し、ほんの一握りの研究仲間を除けば、我が国では現在でも科学社会学という学問分野が学界 で、いわんや世間一般で、認知されているとは言いがたい。授業科目として「科学社会学」を 設けている大学は、筆者の勤務先を含めてもほんの数例を数えるのみではなかろうか。   科学社会学とは、「科学という営みないしは現象を社会学的に分析し、科学と社会の相互 作用を研究する学問分野」とひとまず定義することができよう。換言すれば、科学社会学は、 科学を単に自然に関する体系的知識と捉えるのではなく、社会的・人間的営みとして捉えよう と努める。したがって、科学社会学にあっては、科学者集団の社会的構造を社会学の手法を通 じて分析し、科学と社会の相互作用--科学が社会におよぼす影響とともに、科学とその歴史 的展開を社会がどのように条件付けているか--を分析することが課題となる。また、科学知 識がどのように生産され、流通していくのか、またその過程でどのように加工され変容してい くのかについても関心が向けらるべきだし、実際、後述するように、近年そのような観点から 注目すべき研究成果がうみだされている (7) 。   科学という営みが、科学知識を生産し、それを応用して社会的・技術的課題の解決に努め たり、社会の必要に応じて科学知識を若い世代に伝達したりしている科学者たち--科学者集 団(scientific community)--によって担われていることは自明のことである。また、科学 者集団の存在が、一般社会(具体的には国家や企業、さらには納税者・消費者としての国民) によって支えられていることも自明である。したがって、科学が一つの社会制度に他ならない ことも自明のはずだが、科学を制度として捉え、社会学の研究対象とする試みは、若きR・K ・マートンの野心的な学位論文「十七世紀イングランドにおける科学・技術・社会」(一九三 八年) (8) とそれに引き続く一連の研究をまたねばならなかった。   すなわち、一九三○年代、ハーバード大学の大学院で社会学の研究を始めたマートンは、 科学史研究の泰斗G・サートンの指導をうけながら、「科学の認知的発展と、それを取りまく 社会-文化構造との相互関係が、基本的な問題だとみなして」 (9) 上記の学位論文を執筆し、 さらに科学者を集団としてまた個人として律する規範構造(normative structure of science) への分析と向かったのであった (10) 。   しかし、一九五二年に至っても、マートンが弟子のB・バーバーの著作『科学と社会秩序』 Science and the Social Order に寄せた「序文」で科学社会学が無視されている状況を嘆かね ばならならなかったように、一九五○年代にあっては科学に関する社会学的研究の意義が広く 認められるには至らなかった (11) 。マートン自らが『回想録』の序文で述べているように、 「一九三○年代を通じて、ある程度科学社会学をめぐって関心が集まったが、その後研究は振 るわず、一九六○年代初頭になって、ようやく科学社会学の研究が活況を呈するようになった」 (12) 。   科学社会学が一九四○年代から五○年代にかけて振るわなかったのは、米ソの冷戦体制下 のイデオロギー的対立を反映して、学界でも、科学と社会との相互作用を主題とする研究は左 傾的だとみなされるおそれがあり、タブー視されたという事情があった。実際、マートンその 人も、第二次大戦後は科学と社会の相互作用を総合的に問題とするという学位論文執筆時の研 究関心を後退なしはシフトさせ、自律的な社会システムとしての科学者集団内部の構造・機能 的な分析に限定するようになった。その際、科学知識そのものは確証された知識(certified knowledge)として分析の対象とはしなかった。この結果、マートン流の科学社会学は、科学 知識をブラック・ボックス=暗箱の中に封じ込めてしまったと批判されることになった (13) 。 もっとも、このようなマートンの研究プログラムは、専門分化の著しい欧米のアカデミズムの 中で、科学史や科学哲学とは別の分野としての科学社会学を認知させるためには避けることの できない自己限定だったという事情も斟酌せねばなるまい。   ともあれ、一九五七年、旧ソ連による人工衛星スプートニクの打ち上げの成功とそれに伴 ういわゆる「スプートニク・ショック」を契機にして、欧米では科学(および技術)とその研 究・教育のあり方が社会的に重要な問題としてクローズアップされるようになるとともに、科 学社会学にも強い関心と期待が抱かれるに至った。   ちょうどその頃、すなわち、一九五○年代末から六○年代にかけて科学社会学は独自の研 究を蓄積しつつあった。すでに、マートンとその学統を汲む人々の構造・機能主義的な科学社 会学研究は、例えばW・O・ハグストロム『科学者集団』やN・ストーラー『科学の社会シス テム』などにみられるように、社会学一般のなかで確固たる地歩を占めるに至っていた (14) 。   一方、D・J・ド・ソラ・プライスらによる数量的な科学社会学も目覚ましい成果を上げ つつあった。すなわち、プライスは『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』 (15) という野 心的な研究において、科学者数、科学論文数などといった数量的な指標でみた場合、科学とい う営みは、十七世紀以来一貫して指数関数的な増大傾向を示してきたという顕著な事実を明ら かにしたのである。また、プライスは、A・J・ロトカの科学者の論文生産性に関する数量的 な分析を継承・発展させた。その結果、科学者の論文生産性は正規分布を示さず、非常に偏っ た分布(n編の論文を生産する科学者の数は1/n2に比例する)を示すことを明らかにした。   このようにして、科学社会学を取り巻く外的条件と研究それ自体の内的発展とが呼応して、 一九六○年代以降、科学社会学は一つの専門分野としてようやく確立するに至った (16) 。   以上のような背景のもとで、より多くの人々に科学社会学への関心を呼び起こしたのは、 一九六二年、アメリカの科学史家T・クーンによる『科学革命の構造』の刊行とそれに引き続 く論争であった。クーンによれば、科学という営みは、科学者に問い方と答え方のモデルを与 えるパラダイム(paradigm)の存在に特徴がある。そして、パラダイムを体現し、パラダイム ・チェンジ、すなわち科学革命(scientific revolutions)の担い手となるのは科学者集団に 他ならないため、科学社会学への関心が一挙に呼び覚まされ...

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