認知科学とパラダイム論

閲覧数3,726
ダウンロード数8
履歴確認

    • ページ数 : 2ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    M.ドゥ・メイ著(村上陽一郎、成定薫、杉山滋郎、小林傳司共訳)『認知科学とパラダイム論』産業図書、1990年、496頁。
    訳者あとがき
     本書『認知科学とパラダイム論』は「科学社会学叢書」の一冊として出版された、Mark de Mey, The Cognitive Paradigm, a Newly Explored Approach to the Study of Cognition Applied in an Analysis of Science and Scientific Knowledge, D.Reidel Pub.Co., 1982の全訳である。「科学社会学叢書」については、その刊行趣意が、本書でも翻訳されているのでそれを参照されたい。著者は一九四○年生まれで、現在ベルギーのガン(ゲント)大学の論理学・認識論部門に所属する研究者であり、EASST(Europe Society for Social Study of Science)および4S(Society for Social Study of Science)の会員である。著者の活躍の場は国際的で、ハーヴァード大学の認知科学研究センター(the Center for Cognitive Science)やジュネーヴ大学の発生的認識論研究センター( Centre d'Epistemologie Genetique)での研究経験を有している。著者の一貫したテーマは、ピアジェ心理学や人工知能(AI)の概念を科学的発見の分析に適用することにあり、現在は線形透視図法(linear perspective)をめぐる認知科学の研究プロジェクトを遂行している。また、この観点から、比較文化史的な関心も有しており、中国の大学との協同研究にも手を染めているとのことである。長年の研究成果に裏打ちされた本書の内容は、非常に簡潔で、しかも明解、主張点もはっきりした好著である。
     科学哲学、科学史、科学社会学は、いずれも「科学」についての学問である。「科学」を外から眺め、考え、理解しようとする。かつてこうした学問の目的は、科学が如何に人間の他の知的営為と異なっているか、どれほど、特権的な地位に「科学」があるか、ということを、歴史的、認識論的、方法論的、あるいは社会学的に明らかにすることであった。しかし、ここ三十年ばかりの間に、そうした傾向は大きく変化した。その変化に最大の影響を与えたのは、何といってもトーマス・クーンのパラダイム論であった。本書の構想も、題名の通り、パラダイム論と結びついている。しかし、本書の目指すところは、クーン的なパラダイム論の修整でもなければ、それに基づく「系」(コロラリー)の導出でもない。「知」へのアプローチの新しい試みを提案しようとしていることこそが重要だと思われる。「科学」の特権性への関心がうすれたとき、科学社会学の一つの傾向は、「科学」を一つの「知的生産行為」として眺めてみるというところに向かった。人間が、材料を使って、何らかの物質を生産するのと同じパターンのなかで、「科学」という行為を捉えるのである。「知識の生産」(knowledge production)ということばが、この分野の文献に非常にしばしば登場するようになったのは、一九七○年代のことである。科学者共同体は、一般の社会のなかで、外部から資金を導入して、ある種の知識を生産し、一般社会は、その生産された知識を買って、色々な形で消費する、というような「物」の流れとよく似た「知識」の社会における流れを同定することがで

    タグ

    資料の原本内容

    M.ドゥ・メイ著(村上陽一郎、成定薫、杉山滋郎、小林傳司共訳)『認知科学とパラダイム論』産業図書、1990年、496頁。
    訳者あとがき
     本書『認知科学とパラダイム論』は「科学社会学叢書」の一冊として出版された、Mark de Mey, The Cognitive Paradigm, a Newly Explored Approach to the Study of Cognition Applied in an Analysis of Science and Scientific Knowledge, D.Reidel Pub.Co., 1982の全訳である。「科学社会学叢書」については、その刊行趣意が、本書でも翻訳されているのでそれを参照されたい。著者は一九四○年生まれで、現在ベルギーのガン(ゲント)大学の論理学・認識論部門に所属する研究者であり、EASST(Europe Society for Social Study of Science)および4S(Society for Social Study of Science)の会員である。著者の活躍の場は国際的で、ハーヴァード大学の認知科学研究センター(the Center for Cognitive Science)やジュネーヴ大学の発生的認識論研究センター( Centre d'Epistemologie Genetique)での研究経験を有している。著者の一貫したテーマは、ピアジェ心理学や人工知能(AI)の概念を科学的発見の分析に適用することにあり、現在は線形透視図法(linear perspective)をめぐる認知科学の研究プロジェクトを遂行している。また、この観点から、比較文化史的な関心も有しており、中国の大学との協同研究にも手を染めているとのことである。長年の研究成果に裏打ちされた本書の内容は、非常に簡潔で、しかも明解、主張点もはっきりした好著である。
     科学哲学、科学史、科学社会学は、いずれも「科学」についての学問である。「科学」を外から眺め、考え、理解しようとする。かつてこうした学問の目的は、科学が如何に人間の他の知的営為と異なっているか、どれほど、特権的な地位に「科学」があるか、ということを、歴史的、認識論的、方法論的、あるいは社会学的に明らかにすることであった。しかし、ここ三十年ばかりの間に、そうした傾向は大きく変化した。その変化に最大の影響を与えたのは、何といってもトーマス・クーンのパラダイム論であった。本書の構想も、題名の通り、パラダイム論と結びついている。しかし、本書の目指すところは、クーン的なパラダイム論の修整でもなければ、それに基づく「系」(コロラリー)の導出でもない。「知」へのアプローチの新しい試みを提案しようとしていることこそが重要だと思われる。「科学」の特権性への関心がうすれたとき、科学社会学の一つの傾向は、「科学」を一つの「知的生産行為」として眺めてみるというところに向かった。人間が、材料を使って、何らかの物質を生産するのと同じパターンのなかで、「科学」という行為を捉えるのである。「知識の生産」(knowledge production)ということばが、この分野の文献に非常にしばしば登場するようになったのは、一九七○年代のことである。科学者共同体は、一般の社会のなかで、外部から資金を導入して、ある種の知識を生産し、一般社会は、その生産された知識を買って、色々な形で消費する、というような「物」の流れとよく似た「知識」の社会における流れを同定することができ、その流れに伴って、あるいはその生産活動から消費活動までの間に起こるる様々な現象を、社会学的、認識論的、あるいは経済学的に捉える、というのが、このような関心の赴くところになる。
     科学が知識の聖域として特権視されているときには、決して生まれてこなかったこのような発想は、しかし単に、社会学や哲学的認識論だけではなく、一つの別の知的アプローチと結びつく可能性を持っていた。それが現在もう一方でブーム--場合によっては、空疎な流行現象にすぎないところもあるが--となっている「認知科学」である。認知科学の定義も、認知科学者の数だけあるかもしれないが、一部はAIと結び、一部は心理学と結ぶこの新しい領域では、相手が大脳であれ、コンピュータであれ、要するに、入力と出力の間の変換素子は何であれ、情報の流れのなかで、新しい情報が生産されたり、生産された情報が圧縮されたりというような変形を被りながら、何らかの仕事をしていく、という視点で、知識へのアプローチが行われている。それは、先に見た「知識の生産」というモデルに、ある面では見事にマッチしていると言ってよい。
     しかも、こうしたアプローチは、これまでの科学論(科学史、科学哲学)の領域の持っていた一つの盲点を指摘しているように見えるところがある。というのも、パラダイム論も含めて、これまでの科学という知的行為に対する考え方のなかには、ほとんど無意識のうちに、特権的方法の存在が仮定されていたように思われるからである。なるほど、パラダイム論は、歴史的な意味での「多元主義」を主張することには成功した。しかし、一つのパラダイムのなかでは、一つの方法論がドミナントに支配しており、そこから外れたものは、パラダイムとのミス・マッチという形で、負に評価される、という暗黙の前提があった。この点で、かの悪名高いファイヤアーベントの「何でもかまわない」(Anthing goes!)だけが、こうした前提から免れていたと見ることができるが、いずれにせよ、ほとんどすべての科学論では、ある知的生産が行われたとき、それを支配する「一つの」方法論があった、という了解は、崩されていなかったように思われる。
     しかし、認知科学は、とくにコンピュータに基礎を置く認知現象のモデル化では、最初から人間の認知活動は「一筋縄」ではいかないことが前提にあって、そのシミュレーションには、およそ色々な方法が併用される。たとえば、本書でも扱われているが、かつてマカロックが提案した「ヘテラルキー」の概念なども、十分に考慮されなければならないことになっている。もう少し大胆に言えば、むしろ「ヘテラルキー」的な情報処理は、「ヒエラルキー」的な情報処理が成立するためにも必要な方法なのである。人工知能や、そこへ向かう認知科学のなかでは、一面から言えば、およそ節操のないと言えるほど実践的な、つまり「シミュレーション」がうまくいくなら、それこそ「何でもかまわない」という戦略で、色々な方法論が併用されていく側面がある。
     そして、今それを実践的な戦略だ、と書いたが、実は、我々の認識、あるいは人間の知的生産の現場でも、しばしば「一つの」方法論によってそれが進んでいくのではなく、むしろ幾つもの相補的、相互補償的な、ときには矛盾する方法論が、「同時に」採用され、その間の最適バランスのなかから、解が探されているのではなかろうか、という疑いが生じる。
     本書では、このような、科学論における新しい潮流と、認知科学の戦略との接点に、新鮮な可能性を求めた試みが、随所に見られるが、一つの特徴は、右に述べたような文脈にしたがって、硬直した二分法や「あれか、これか」という態度ではなく、共存的、相補的な方法論上の多元主義が展開されているところにあるように思われる。
     翻訳は、「科学社会学叢書」編者序文、序文、第「部およびエピローグを成定、第。部を杉山、第」部を小林がそれぞれ担当し、村上は成稿全体をチェックする、というかたちをとった。訳語・表記などについては、杉山・小林の作成したワープロ原稿とフロッピーを成定のもとに集約し、整理・統一した。(各自が使用しているワープロの機種が異なるため、コンバートやそれに伴う細かな修整作業にかなりの手間と時間を要した。ワープロやパソコンの互換性が実現するのはいつのことだろうか。)また、広島大学教育学部の岡田猛、中條和光、伊藤克浩の三氏は、成定の求めに応えて中間段階の訳稿に眼を通して多くの貴重な意見を寄せて下さった。記して謝意を表する次第である。終わりに、いつもながら、こうした地味な書物の出版に力をかして下さる、産業図書の江面竹彦氏に感謝の言葉を記しておきたい。
       一九九○年一月
              訳者を代表して
                      村上陽一郎・成定薫
    資料提供先→  http://home.hiroshima-u.ac.jp/nkaoru/CognitiveParadigm.html

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。