「遠野物語論~人間と動物の関係性~」
遠野物語は、書版からすでに90年以上もの年月を経た現在もなお、読み続け、伝え続けられている。柳田国男が遠野の人、佐々木鏡石氏(当時24~25歳)から聞いた土地の人たちの話を採集、そして、筆記したのであるが、当時は異色作品であったようだ。この遠野物語がこんなにも長年に渡り守り続けられてきた魅力とは、いったい何だったのだろうか。また、著者の柳田国男が民間信仰、栄枯盛衰、山中での出来事、怪奇伝説、行事、昔話などを通して伝えて行きたかった事とは何なのであろうか。
遠野物語からは、当時の人々の暮らしや自然のあり方、生活習慣などを読み取っていくことが出来る、と授業で習った。柳田国男による遠野物語とは、いったいどのような世界だったのだろうか。遠野物語では、人間のほかに、カッパ、ヘビ、キツネ、馬、おおかみ、おいぬ…などと、沢山の動物が登場してきたことが、私は読み終わった時にとても印象強く感じた。話しの内容は異なるが、まるで幼いころに大好きで、毎日読んでいたイソップ物語のようだと感じた。だから、今回のレポートで私は、遠野物語から見る、人と動物との関係性について視点を置き、書き進めていこうと思う。
人と動物は古く昔から携わってきた。しかし、この遠野物語の人たちは、ヘビやキツネ、馬、山女、「河童の子」と噂される赤子、山男めいた坊主などを、動物も人間も両方いたわることもせず、いとも簡単にどんどんと殺してしまう。そして祟られることもない。人々は、「殺すこと」についてどのように考えていたのだろうか。殺しは当たり前で、罪の意識はこれっぽっちもなかったのであろうか?それとも、いやいやながら仕方なく殺していたのであろうか?遠野物語を読む限りでは、全くといって良いほど罪の意識は感じられない。たとえば、河童の子と思われる赤子を殺して樽に入れて埋めたり、家の外から死人を窺っているキツネを棒で打ち殺したり、深夜に夫が妻と出会ったが妻なはずがないと刺したらキツネだったり、狼の子を3匹見つけてたちまち2匹を殺してしまったり、株の下に見つけたヘビを皆殺しにしてしまったり、白い石を餅と一緒に焼いて坊主に食わせ殺したり…など沢山の悲惨な出来事が、淡々と書きつづられている。そして、何のためらいも見せず、「殺した」という事実を神や鬼の仕業に置き換えているのであるのだ。これは、なぜなのであろうか。読んでいるときは、なぜこんなにもひどく残虐なことばかりしてしまうのだろう、とわたしはまったく理解することが出来なかった。
しかし、河童の子(赤子)殺しや神隠しにあった人々などについて、解釈の一つとして、家の経済的問題や奇形児出産により仕方なく殺さざるえなかったため、他者のせいにして、正当化する口実としての殺しであった、などという資料があり、殺しが悲しく、いけないことに変わりはないが、理解することが出来た。当時の遠野地方は天候が不順で干ばつも続き、人々の生活は崩壊寸前であったそうだ。その結果、飢饉による犠牲者が数絶えなかった。生活苦により、愛しているわが子や家族さえをも殺してしまわなければいけなくなってしまうなんて、日本で今の時代を何気なく普通に生きて生活している私たちには想像も出来ない。自然の恐ろしさを改めて感じた。もしも、そこまでどん底に落ち生きていくために殺してしまわなければいけない状況になったとしたならば、しょうがないじゃないか、と自分に無理矢理言い聞かせ、私も誰かのせいにしてしまいたいと思うだろう。
これらを考えているうちに、物語の中で動物たちをも殺していたのは、
「遠野物語論~人間と動物の関係性~」
遠野物語は、書版からすでに90年以上もの年月を経た現在もなお、読み続け、伝え続けられている。柳田国男が遠野の人、佐々木鏡石氏(当時24~25歳)から聞いた土地の人たちの話を採集、そして、筆記したのであるが、当時は異色作品であったようだ。この遠野物語がこんなにも長年に渡り守り続けられてきた魅力とは、いったい何だったのだろうか。また、著者の柳田国男が民間信仰、栄枯盛衰、山中での出来事、怪奇伝説、行事、昔話などを通して伝えて行きたかった事とは何なのであろうか。
遠野物語からは、当時の人々の暮らしや自然のあり方、生活習慣などを読み取っていくことが出来る、と授業で習った。柳田国男による遠野物語とは、いったいどのような世界だったのだろうか。遠野物語では、人間のほかに、カッパ、ヘビ、キツネ、馬、おおかみ、おいぬ…などと、沢山の動物が登場してきたことが、私は読み終わった時にとても印象強く感じた。話しの内容は異なるが、まるで幼いころに大好きで、毎日読んでいたイソップ物語のようだと感じた。だから、今回のレポートで私は、遠野物語から見る、人と動物との関係性について視点を...