国際法の観点から見た戦後の竹島周辺海域
1.はじめに
先月末、日本による竹島(韓国名は独島、以下では簡略化のため竹島と称す)周辺海域での海洋調査をめぐって日韓間で緊張が高まった。日本の海洋調査を、韓国側が「主権に対する挑発的行為」であるとして強く反発し、もし調査を実施した場合には、日本政府の工船である測量船の拿捕も辞さないという態度を見せたのだ。両国とも何を基に自国の正当性を主張していたのだろうか。武力衝突という事態は回避することができたものの、まさに一触即発の雰囲気であったことは否めない。このような出来事を今後なくすためには、客観的な国際法という基準を把握し、冷静に対処することが重要であろう。本稿では、国際法の観点から竹島周辺海域の法的地域を歴史順に追っていきたい。なお、本稿はあくまで海域の問題を取り扱うのであって、竹島の領有権問題には触れない。
戦後から日韓新漁業協定までの竹島周辺海域
戦後、日本は連合国により主権に一定の制限を受けるようになった。まず、1946年1月29日の「SCAPIN677号」(正式名称は「若干の外郭地域を政治上・行政上、日本から分離することに関する覚え書き」)により、竹島に対する日本の管轄権を一時的に停止することを命じた。また、続いて日本の漁業領域を定めた「SCAPIN1033」(正式名称は「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)でも竹島周辺海域を日本の管轄外におくことを決めた。ただしこれらの覚書は、SCAPIN677号6項に「この覚書は、ポツダム宣言第8項がいう諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を表すものではない」とあるように、一時的な占領政策に関するものであると日本側は主張している。
このように、戦後、竹島周辺海域は韓国が使用していたと考えられる。その後、日本は1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約を結ぶのだが、この条約には「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」という記述がある。この規定に竹島が含まれていないことが、日本は竹島を放棄していないことを意味するのか、これらの島は例示的に挙げられたものに過ぎず竹島も放棄した島に含まれるのかで議論があるが、ここでは触れない。
このサンフランシスコ条約は翌年4月28日発効予定であったのだが、この3ヶ月前の1月18日にいわゆる「李承晩ライン」宣言が当時の韓国大統領であった李承晩により行われ、竹島を自国領にしてしまったのである。この時から竹島問題は始まったと言われているが、当然竹島だけでなくその周辺の海域も韓国が支配することになった。この「李承晩ライン」は当時の公海上に設定されていたため、韓国政府はこのラインに依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕し続け、拿捕された日本漁船は233隻、抑留された漁船員は2791人、死亡した漁船員は5名に及んだと言う。
この「李承晩ライン」は1965年の日韓基本条約と同時に結ばれた日韓漁業協定により消滅した。この日韓漁業協定では、不法漁労の取締りをその漁船の属する国に委ねる「旗国主義」に立っていた。そのため、日本の領海である12海里以内で韓国漁船が違法漁獲を行っても、日本は取り締まることができなかった。その一方、日韓基本条約で竹島問題の解決が図られなかったように、日韓漁業協定においても竹島周辺海域の問題は棚上げされたままであり、竹島とその周辺海域は相変わらず韓国が支配していたので、当然その周辺の海域で日本側は漁業を行うことができなかった。
国際法の観点から見た戦後の竹島周辺海域
1.はじめに
先月末、日本による竹島(韓国名は独島、以下では簡略化のため竹島と称す)周辺海域での海洋調査をめぐって日韓間で緊張が高まった。日本の海洋調査を、韓国側が「主権に対する挑発的行為」であるとして強く反発し、もし調査を実施した場合には、日本政府の工船である測量船の拿捕も辞さないという態度を見せたのだ。両国とも何を基に自国の正当性を主張していたのだろうか。武力衝突という事態は回避することができたものの、まさに一触即発の雰囲気であったことは否めない。このような出来事を今後なくすためには、客観的な国際法という基準を把握し、冷静に対処することが重要であろう。本稿では、国際法の観点から竹島周辺海域の法的地域を歴史順に追っていきたい。なお、本稿はあくまで海域の問題を取り扱うのであって、竹島の領有権問題には触れない。
戦後から日韓新漁業協定までの竹島周辺海域
戦後、日本は連合国により主権に一定の制限を受けるようになった。まず、1946年1月29日の「SCAPIN677号」(正式名称は「若干の外郭地域を政治上・行政上、日本から分離することに関する覚え書き...