①ライフセイビングの歴史について
英国植民地として、オーストラリアの法律は英国の法システムにならい、道徳律によるものであった。ニューサウスウェールズ州政府では、1833年シドニーコープやダーリングハーバーでの朝六時から夜八時まで海水浴を禁止する法律が通過している。カウンシルレベルで同様の法律が次々に生まれている。公共の場であるビーチで肌や裸を人目にさらすのは下品であると言う道徳的意味あいによるものであった。しかし19世紀後半、禁止されていたとはいえ人々のビーチへの欲望は抑えられるものではなかった。すでに上流階級の独占物とはいえ海水浴場が誕生していたのであり、ブラックプールなどの労働者階級のビーチも誕生していた。規模は定かではないが、英国からの新たな入植者たちは少なくとも情報として、ビーチの快楽を知っていたはずである。そして、1890年代には肌を見せないで海水浴をするための用具であった、ペイジングマシーンによる海水浴やボディーサーフィンが流行し、違法な海水欲者は後をたたなかった。そこから、徐々に違法者が増え続け少しずつではあったが、警察など反対派が妥協していった。そして1902年9月に事件は起きた。当時マンスリー新聞の編集委員であったウィリアムが新聞コラムに、マンリー海岸で昼間に泳ぐことを予告し実践したのだ。警察はそれを監視するだけで彼を捕らえなかったため、賛同者が次々と彼に続いた。その結果、1903年12月2日に条件付ではあるが、法律を撤廃したのである。8歳以上で首から膝まで隠すコスチュームを着用していれば、朝六時から夜七時までの時間帯でも海水浴は合法である。ところがその条件は重い服装を着用する海水浴者を増やし、逆に多くの不幸をもたらしてしまった。翌年、マンリービーチでは17名の水死者を記録してしまったのである。当時の大きな社会問題になった。そして、海水浴者を水難事故から守るライフセイビング活動は、実は1894年初めシドニー近郊のいくつかのビーチでボランティアの人々によって始められていた。彼らは1891年英国で設立されたロイヤルライフセイビングソサイエティのオーストラリア支部組織において、真水での救助活動の技術と方法を学んだ人々であった。そして、彼らに続くように違反者たちは多くのビーチで救助活動を行うようになったのである。社会問題化していた溺死者の増大を何とかくい止めようしていたのである。その結果、次第に違反者たちの活動は地元住民を含めた人々との信頼を得ていったのである。1906年2月、ボンダイビーチにボンダイサーフバイザーズライフセイビングクラブ(SLSC)が結成された。メンバーの多くが、かつて法律の撤回を求め運動し訴訟を起こした委員会のメンバーだった。以後次々と各地でサーフライフセイビングクラブが誕生した。母体は法律への違反者たちのボランティア集団であった。今では泳ぐと言う行為は当たり前のことだが、100年前は禁止されていた。その法律と戦った人々がSLSCを築いた人々であった。彼らにとって海水浴は戦いから勝ち得た権利であり、それを勝ち得るための行為としてサーフライフセイビングが行われたのである。しかし、SLSC設立後も戦いが終わった訳ではなかった。ビーチの主導権や助成金をめぐるカウンシルとのやり取りはしばらく続くことになる。さらに、ビーチの品行を維持する事に対してもSLSCは全面的な信頼を得たわけではなかった。海水欲に対する条件の撤廃まではかなりの年数が必要であった。
②スポーツのグローバル化の現状とそこに見られる問題点について。
日本の
ライフセービングの歴史、スポーツのグローバル化、スポーツと現代社会
①ライフセイビングの歴史について
英国植民地として、オーストラリアの法律は英国の法システムにならい、道徳律によるものであった。ニューサウスウェールズ州政府では、1833年シドニーコープやダーリングハーバーでの朝六時から夜八時まで海水浴を禁止する法律が通過している。カウンシルレベルで同様の法律が次々に生まれている。公共の場であるビーチで肌や裸を人目にさらすのは下品であると言う道徳的意味あいによるものであった。しかし19世紀後半、禁止されていたとはいえ人々のビーチへの欲望は抑えられるものではなかった。すでに上流階級の独占物とはいえ海水浴場が誕生していたのであり、ブラックプールなどの労働者階級のビーチも誕生していた。規模は定かではないが、英国からの新たな入植者たちは少なくとも情報として、ビーチの快楽を知っていたはずである。そして、1890年代には肌を見せないで海水浴をするための用具であった、ペイジングマシーンによる海水浴やボディーサーフィンが流行し、違法な海水欲者は後をたたなかった。そこから、徐々に違法者が増え続け少しずつではあったが、警察など反対派が妥協していった。そして1902年9月...