日本映画においては、他国の映画に比べて人物の後姿を写したり、または人物がいない空間を撮ったりするといった間接的な表現手法が存在する。こうした撮影方法はなぜ生じたのだろうか。私が思うに、日本映画における「不在表象」「背面表象」は、静の中に美を見出す、間接的に美や真を伝える日本文化の性質に由来しているのだと考える。
ここで、そうした日本文化の一つとしてここで茶道を挙げてみよう。よく言われるように、茶道には「わび・さび」の文化が存在する。人工的にごてごてと装飾されたものを美とせず、周囲の空気に溶け込む自然の姿を活かされたものこそが真の美である、という考えである。例えば茶道の始祖とされる千利休の言葉に次のようなものがある。利休の言葉を弟子たちがその死後に編集した利休道歌には「釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚な」というものが残されている。利休といえば、太閤秀吉に重用されていたが、彼の芸術観に相対するようになり切腹させられたといわれる人物である。上記の言葉には、茶の湯というのは大金を費やし手に入れた名器を自慢するためのものではなく、自分の身の丈にあった道具でもって客人に至福のひと時を提供できるようなものであるべきだ、と述べており、飾りたてたものを美としない彼の考えをよく表しているといえるだろう。
日本映画文化論レポート 「不在表象」「背面表象」に関する一考察
日本映画においては、他国の映画に比べて人物の後姿を写したり、または人物がいない空間を撮ったりするといった間接的な表現手法が存在する。こうした撮影方法はなぜ生じたのだろうか。私が思うに、日本映画における「不在表象」「背面表象」は、静の中に美を見出す、間接的に美や真を伝える日本文化の性質に由来しているのだと考える。
ここで、そうした日本文化の一つとしてここで茶道を挙げてみよう。よく言われるように、茶道には「わび・さび」の文化が存在する。人工的にごてごてと装飾されたものを美とせず、周囲の空気に溶け込む自然の姿を活かされたものこそが真の美...