「踊る男女の埴輪は何の為に作られたのか」
この埴輪は1930年に埼玉県江南町にある野原古墳群の前方後円墳から出土した埴輪で、いかにもリズムをとって踊っているように見えることから東京帝宝博物館の後藤守一氏によって「踊る男女像」と名付けられました。大きい方の埴輪は高さ63.2cmで顔の左右に小円を開けて耳を表現しています。小さい方は高さ56.8cmで頭部にふりわけ髪と顔の左右には蝶型の角髪を結い、左腰に紐を下げ、後腰には鎌を差しています。この小さい方の埴輪が男性であると考えられています。また、出土した他の遺物や、埴輪の作り方から6世紀後半に作られたものだと考えられます。
まず、はじめにそもそも埴輪というものは何の為に作られたのかということについてですが、これについては現在でも様々な議論が繰り返されています。
1つ目の有力な説は殉死代用説です。人や馬の形を模した埴輪がどうして墳墓に立てられるようになったかというその起源は、『日本書紀』に次のように語られています。
二十八年の冬十月の丙寅の朔にして庚午に、天皇の母弟、倭彦命薨ります。 十一月の丙申の朔にして丁酉に、倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬りまつる。是に、近習の者を集へて、悉くに生けながらにして陵の域に埋め立つ。数日へて死なず、昼夜泣き吟つ。遂に死にして爛ち●り、犬・烏聚り■む。 (●=「自」の下に「死」/■=「口」偏に「敢」) 天皇、此の泣き吟つる声を聞きたまひて、心に悲傷有します。群卿に詔して曰はく、「夫れ生に愛しびし所を以ちて亡者に殉はしむるは、是、甚だ傷なり。其れ、古への風と雖も、非良は何ぞ従はむ。今より以後、議りて殉を止めよ」、と。(垂仁紀二十八年条)
三十二年の秋七月の甲戌の朔にして己卯に、皇后日葉酢媛命、薨ります。臨葬りまつらむとして日ごろ有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に不可と知れり。今し此の行の葬りにいかがせむ」と。 是に野見宿禰、進みて曰さく、「夫れ君王の陵墓に生ける人を埋め立つるは、是良からず。豈後葉に伝ふること得むや。願はくは、今し便りなる事を議りて奏さむ」と。則ち使者を遣して、出雲国の土部壱佰人を喚し上げ、自ら土部等を領ひ、埴を取りて、人・馬と種々の物の形とに造作り、天皇に献りて曰さく、「今より以後、是の土物を以ちて生ける人に更易へ、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」と。 天皇、是に大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰はく、「汝が便りなる議、寔に朕が心に洽へり」と。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて、是の土物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名ふ。仍りて、令を下して曰はく、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹てよ。人をな傷りそ」と。(垂仁三十二年条)
このように殉死説は葬列の際の残酷な制度を変えるために当時の天皇であった垂仁天皇が野見宿禰に相談し、人や動物の代わりに人や動物を象った埴輪を作ったというものですがもともと埴輪は壺形埴輪や円筒埴輪から発達し、器台埴輪・器財埴輪・人物埴輪・動物埴輪などに広がったもので、人物や動物の埴輪は古墳時代の中期半ば以降に作り始められ、後期に盛んとなったもので、埴輪そのものは、垂仁紀に描かれているような理由で作り始められたわけではない、ということから最近では否定されています。ただ、埴輪を作る目的も時代によって変化したかもしれず、殉葬を回避するために人物や馬が作り始められたという説明をまったく否定しさるのもむずかしいことだと思います。
次に葬送儀礼説ですが、これは発掘の際に人物埴輪や動物埴
「踊る男女の埴輪は何の為に作られたのか」
この埴輪は1930年に埼玉県江南町にある野原古墳群の前方後円墳から出土した埴輪で、いかにもリズムをとって踊っているように見えることから東京帝宝博物館の後藤守一氏によって「踊る男女像」と名付けられました。大きい方の埴輪は高さ63.2cmで顔の左右に小円を開けて耳を表現しています。小さい方は高さ56.8cmで頭部にふりわけ髪と顔の左右には蝶型の角髪を結い、左腰に紐を下げ、後腰には鎌を差しています。この小さい方の埴輪が男性であると考えられています。また、出土した他の遺物や、埴輪の作り方から6世紀後半に作られたものだと考えられます。
まず、はじめにそもそも埴輪というものは何の為に作られたのかということについてですが、これについては現在でも様々な議論が繰り返されています。
1つ目の有力な説は殉死代用説です。人や馬の形を模した埴輪がどうして墳墓に立てられるようになったかというその起源は、『日本書紀』に次のように語られています。
二十八年の冬十月の丙寅の朔にして庚午に、天皇の母弟、倭彦命薨ります。 十一月の丙申の朔にして丁酉に、倭彦命...