第八十五銀行は明治三十一年一月一日、私立銀行としてスタートしたが、これは国立銀行からの改組であった。そのため、この第八十五銀行を理解するには、もう少し歴史をさかのぼる必要があるので、国立時代から見ていきたい。
第八十五国立銀行は、その名のとおり全国で八十五番目にできた国立銀行である。この国立銀行とは、アメリカの「ナショナル・バンク」を手本とした明治五年十一月制定の国立銀行条例によるもので(九年改正)、政府乱発の不換紙幣の回収、インフレを抑制し殖産興業のための資金供給が主な目的であった。設立地は埼玉県の川越町で、設立年は明治十一年である。詳しくは同年五月十五日に設立許可が下り、十月十五日に正式に設立され、十二月十七日に営業を開始した。資本金二十万、一株額面百円、株主数は二百四十九人に上った。また発起人については、当時川越およびその周辺には、江戸期以来の豪商・地主が多く、これらが主体となって開設を出願した。資本金二〇万円のうち約半分は士族禄であるが、士族一人当りの出資は零細なものが多く、大株主は地主や商人であった。したがって開設にさいしては、黒須喜兵衛(頭取)や綾部利右衛門・横田五郎兵衛など、地元の豪商や地主が重役に就任した。この銀行は発足以来、条令にもとづいて一六万円の紙幣発行をおこなうとともに、一般貸付もおこなって堅実な経営がつづき、翌明治十二年六月の決算では一万三〇〇〇余円の利益をあげ、一割二分の配当をおこなった。当時、県内に多数の銀行類似会社があったが、多くは高利貸まがいのもので、大資本による本格的な銀行は県内はじめてであったから、地域の信頼も厚かったのであろう。
明治十年代から三十年代に設立された私立銀行を一行取り上げよとのことだが、私は第八十五銀行を取り上げたい。この第八十五銀行とは現りそな銀行の前身の一つである。現在の都銀は東京三菱、みずほ、三井住友、UFJのたった四行である。そして少し前までこの都銀の仲間だったのが、りそな銀行である。今年五月に「りそなショック」と呼ばれる事実上の国有化が決定したりそな銀行のそのときの状況を以下に簡単に振り返っておく。
「りそな銀行などの持ち株会社、りそなホールディングス(HD)は16日、1兆円規模の公的資金の注入を政府に申請する方針を固めた。03年3月末の連結自己資本比率が、健全性の基準の4%を下回ったためだ。政府は17日夕、預金保険法102条に基づいて初の「金融危機対応会議」を招集、公的資金注入などを決める。預金は全額保護される。日本銀行も必要に応じて特別融資で資金繰りを支援するなど、政府・日銀一体で金融システム不安の回避に全力をあげる考えだ。勝田泰久りそなHD社長は経営責任をとって退陣する見通しだ。預金保険法による特別支援の初適用となる。
りそなの自己資本比率が低下するのは、不良債権処理の増加や...