―仮名文学の誕生と『土左日記』・『源氏物語』の成立経緯―
平安時代に入り、上代には見られなかった新たな表現、またジャンルが発生を見ることとなった。『竹取物語』を祖とする作り物語や『伊勢物語』の歌物語、またそれらと並行して、仮名書きの日記文学・紀貫之の『土左日記』の誕生を見ることとなった。当時の日記は男性のもの、漢文体で書かれたものであり、そこには宮中での行事や政務に関することを仔細書き入れ、子孫に伝承しようとの意識も含まれていた。つまり日記によって家の歴史、宮中との関わり、また家のあり方を示し残そうとの意識が根底にあったため、私的態度をあらわにして日記を書くことは不可能と考えられていた。
『土左日記』は紀貫之の官人としての生活を、第三者的視点で捉えた仮名文学の嚆矢であり、漢文体では成すことのできなかった私的感情の吐露を目的とした作品である。そこにはままならぬ船旅への怒り、任地で子を失った悲しみ、人の心の移り変わりに対する憤りなどが豊かな表現で描かれており、漢文体では決して表現しえなかった「主観」を余すことなく表現することを成功させた。仮名を用いることにより闊達に心情を表現することを可能にしたことは後に多くの女流文学作品が生まれるきっかけともなった。この点について大久保正は「平安朝にはいり、仮名の発達を見、初めて固有の散文体の成立を見るに至ったのであり、人々は自由にその思想やや感情を散文に表現することが可能になったのであって、(中略)このような文体の創出を前提として初めて可能になったのであった」※1と指摘しており、まさに仮名の成立が後の散文学の可能性を大きく広げたと言うことができよう。これらのことは『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』、『讃岐典侍日記』といった、『土左日記』以降の日記文学が、「女手」の使い手によって書かれたこと、そしてこれらの作品のそれぞれが筆者の個性、内省を大きく反映した作品となったことによって、仮名文学の大いなる特性が理解できよう。また仮名書きにより豊かな個性の表出を可能にしたことは物語文学への発展につながっていった。そして『竹取物語』、『宇津保物語』、『落窪物語』の作り物語、また『伊勢物語』、『大和物語』、『平中物語』の歌物語の流れを経て、十一紀初頭に仮名文学の巨星、『源氏物語』の誕生を見ることなった。「平安時代の『物語』という言葉は、作品としての『物語』をまず念頭に浮かべ勝ちであるが、元々は今言うところの〝はなし″や〝おしゃべり″ということで、たわいがないと言えば、実はこれほどたわいのない言葉はない」※2との河地修氏の指摘どおり、本来「物語」とは日常の会話を指し示す語である。また、野崎守英氏の「『源氏物語』のような物語文学のフィクションを生み出すという伝統も中国文化の中では古くからあったわけですから、書くことは平安朝の中ではかなり自由に操ることができたように思える」※3との言は、中国文学との比較の観点から、『源氏物語』における登場人物の個性が見事に表現されていることの根拠を示したものであると言えよう。「おしゃべり」、「平安朝における『書く』表現の発達」をキーワードに置いて、「仮名の使用」を考えると、『源氏物語』誕生の一端を次のように推測できる。
宮廷内の女房たちの慰みである「物語」は女房たち自身の手によって、興味・関心の惹かれるままに、また、読み手の興味に沿う形でフィクションとして(時に史実を交えながら)成立していくことは想像に難くない。女房らが仕える上流の女性に面白がられ、共感される「物語」は、
―仮名文学の誕生と『土左日記』・『源氏物語』の成立経緯―
平安時代に入り、上代には見られなかった新たな表現、またジャンルが発生を見ることとなった。『竹取物語』を祖とする作り物語や『伊勢物語』の歌物語、またそれらと並行して、仮名書きの日記文学・紀貫之の『土左日記』の誕生を見ることとなった。当時の日記は男性のもの、漢文体で書かれたものであり、そこには宮中での行事や政務に関することを仔細書き入れ、子孫に伝承しようとの意識も含まれていた。つまり日記によって家の歴史、宮中との関わり、また家のあり方を示し残そうとの意識が根底にあったため、私的態度をあらわにして日記を書くことは不可能と考えられていた。
『土左日記』は紀貫之の官人としての生活を、第三者的視点で捉えた仮名文学の嚆矢であり、漢文体では成すことのできなかった私的感情の吐露を目的とした作品である。そこにはままならぬ船旅への怒り、任地で子を失った悲しみ、人の心の移り変わりに対する憤りなどが豊かな表現で描かれており、漢文体では決して表現しえなかった「主観」を余すことなく表現することを成功させた。仮名を用いることにより闊達に心情を表現するこ...