「自由はよいものだ」という主張には多くの人が賛成するだろう。だが現代、この主張が疑問視されつつある。本当に自由は無条件によいものなのか、そもそも自由とは何であるのか、といったことが問われるようになってきたのである。この問いに答えるにはまず「自由は不自由なしでは存在し得ないものだ」ということを念頭におく必要がある。人間がある物事を捉えるには、それと反対の意味を持つものが必要である。なぜなら人間の世界において絶対的なものは存在しないからだ。つまり人間は相対的にしか物事を判断できないのだ。それゆえ我々が自由について考えるときには、制約や拘束などの不自由と比較しながら考えることしかできないのだ。そこで対立する概念である不自由と比較しながら自由の意義について論じることにする。
自由と同様にこの不自由な制約や拘束も絶対的なものではない。法律や規則だけでなく世間の常識も含めて、他人が作った外的な制約は変わるものである。さらに自分自身に課す内的な制約についても、各人がその時々で意識的にも無意識的にも変えてい。
不自由さを伴う自由
「自由はよいものだ」という主張には多くの人が賛成するだろう。だが現代、この主張が疑問視されつつある。本当に自由は無条件によいものなのか、そもそも自由とは何であるのか、といったことが問われるようになってきたのである。この問いに答えるにはまず「自由は不自由なしでは存在し得ないものだ」ということを念頭におく必要がある。人間がある物事を捉えるには、それと反対の意味を持つものが必要である。なぜなら人間の世界において絶対的なものは存在しないからだ。つまり人間は相対的にしか物事を判断できないのだ。それゆえ我々が自由について考えるときには、制約や拘束などの不自由と比較しながら考えることしかできないのだ。そこで対立する概念である不自由と比較しながら自由の意義について論じることにする。
自由と同様にこの不自由な制約や拘束も絶対的なものではない。法律や規則だけでなく世間の常識も含めて、他人が作った外的な制約は変わるものである。さらに自分自身に課す内的な制約についても、各人がその時々で意識的にも無意識的にも変えている。例えば、普段は何を決めるにしても「死ぬ」という選択肢はないが、何かのきっ...