井伏文学はヒューマニズム文学とはいえ、暖かく、穏やかで、けっして極端ではない。普通、無力の主人公の無力な抵抗を利用して、自分のまた人並みの日本人の悲しみや嘆きなどの気持ちを表し出したのだ。井伏鱒二氏は今の時代の人々がたぶん理解できないが。しかし、思想的な一つの激動期である大正期から昭和中期へかけて、右に左に日本の作家も揺れ動くのだが、井伏文学は、シンの強さをうちに秘めながらも、穏やかな中道の道を歩んでくるのであろう。
山椒魚
一、山椒魚はどういうものだろうか。
それは1メートル近い岩のような生き物である。よく見れば大きすぎる頭と短い手と足、そして太い尾があるという小さいものである。巨大な顔には途方もなく離れてピンの頭程度の目がついている。大きな口はすこし笑っているようだ。いきおいその生息域は、非常に限られたものになってしまった。しかも彼らは夜行性だ。昼間は落ち葉や底泥の中に身をひそめている。我々が普通に生活していて存在に気づくことはない。人間たちの知らない間に,ひっそりとその姿を表したり、消しつつある。そんなサンショウウオなのである。
だって、井伏鱒二氏はこんなにほのわずかな生き物にも目を注げるのは不思議なことであろう。
二、「山椒魚」の原動力
はじめて、井伏鱒二氏の「山椒魚」を読んで、主人公は一目で見える山椒魚であり、岩屋の中に閉じ込められた運命を嘆き、人間のように独り言を言ったり、蛙と口論したりする。現実には山椒魚が人間の言葉で独り言を言ったというのはありえない。荒唐無稽な話であろうか。この山椒魚のくだらなさそうな生活が描かれて、また、文章全体の構成のばらばらである。このような小説が読む価値があ...