理想的な美人像は固有名詞に託されて語られることが多い。いくら美しい女性でも、「伝説」がなければ、永遠に語り継がれる美女にはならない。実際に顔立ちが美しかったかどうかよりも、男達がいかに魅惑されたかのほうが、興味をそそられるものである。中国では、西施などの美人像が早くから登場した。そして、時代が下がるにつれて、王昭君、李夫人などが付け加えられるようになった。類まれな美貌のために玄宗皇帝に寵愛され、安緑山の乱の責任を押し付けられて非業の死を遂げた楊貴妃もその一人である。
日本では、『源氏物語』ではじめて楊貴妃の美貌が理想像として言及された。「桐壺」の巻を要約すると、「桐壺の更衣は、身分はさして高くはなかったが、人のそしりの対象になるほどの帝の寵愛は、ついに多くの人の嫉妬を招くに至ったことは、あたかも長恨歌の、玄宗の楊貴妃に対するが如くであった」ということになる。天皇の、佳人に対する寵愛の項では、「あながちに人目驚くばかり」の御覚えは「あまたの御方々を過ぎさせ給ひつつひまなき御前渡」という。あたかもそれは「承歓侍宴無閑暇 春従春遊夜専夜」にあたり、まさしく、「後宮華麗三千人 三千寵愛在一身」の言葉通りであった。『源氏物語』においては、美貌そのものよりも、皇帝の寵愛ぶりを表現する手段として、楊貴妃が引用されている。
鎌倉時代に入ってからは、『源氏物語』のように寵愛された女としてだけではなく、美人の代名詞としてしばしば文学の中で楊貴妃が取り上げられた。『太平記』巻第十五「賀茂神主改補の事」の基久の娘についての容貌描写はその一例である。「玉妃の太真院を出でし春の媚を残せり。」つまり「春の湯浴みから上がった楊貴妃のあでやかさを持っていた。」というのである。また『平家物語』では、建礼門院の容貌が「桃李の御粧猶こまやかに、芙蓉の御かたち」云々と描かれている。
「日本文学に見る楊貴妃像」
理想的な美人像は固有名詞に託されて語られることが多い。いくら美しい女性でも、「伝説」がなければ、永遠に語り継がれる美女にはならない。実際に顔立ちが美しかったかどうかよりも、男達がいかに魅惑されたかのほうが、興味をそそられるものである。中国では、西施などの美人像が早くから登場した。そして、時代が下がるにつれて、王昭君、李夫人などが付け加えられるようになった。類まれな美貌のために玄宗皇帝に寵愛され、安緑山の乱の責任を押し付けられて非業の死を遂げた楊貴妃もその一人である。
日本では、『源氏物語』ではじめて楊貴妃の美貌が理想像として言及された。「桐壺」の巻を要約すると、「桐壺の更衣は、身分はさして高くはなかったが、人のそしりの対象になるほどの帝の寵愛は、ついに多くの人の嫉妬を招くに至ったことは、あたかも長恨歌の、玄宗の楊貴妃に対するが如くであった」ということになる。天皇の、佳人に対する寵愛の項では、「あながちに人目驚くばかり」の御覚えは「あまたの御方々を過ぎさせ給ひつつひまなき御前渡」という。あたかもそれは「承歓侍宴無閑暇 春従春遊夜専夜」にあたり、まさしく、「...