今、世界、主にフランスやアメリカで一番注目されている国際問題である「ダルフール紛争(民族紛争)」について書こうと思う。
まず、ダルフールという地域について説明したいと思う。ダルフールとは、スーダン西部の地域でチャド、中央アフリカ、リビアと接している。地理的にはダルフールと一括されているが、行政上は北ダルフール、南ダルフール、西ダルフールの3つの連邦州に分かれている。
次に、民族紛争が起こったきっかけを説明しようと思う。そのためには、ダルフールの歴史を知ることが重要になってくる。ダルフールの歴史、これは簡単にいうと水や牧草地を求めて移動するアラブ系の北部遊牧民と土地とわずかばかりの家財を守ろうとする非アラブ系の農民との争いの歴史である。そして、民族紛争と呼ばれる起因はここにある。紛争のきっかけとしては、1985年ごろに最初は水と食料を求めるアラブ系部族が、あいついで非アラブ系部族であるフール族の村を襲撃したことに端を発している。フール族はこれに武力で対抗し、この戦争は88年にかけて4年間続いた。これに対し、89年11月の「和平会議」でいったん休戦が成立した。しかし、この年にスーダン政...
ダルフール人はアラブであろうとなかろうと全員ほとんど区別の付かない黒人である。アラブ人というのは文化的意味しかない。ダルフールのアラブ人は、遊牧生活を定期的に行う部族から、ほとんど定住し面火災場を行うものまで、フランスほどのダルフールで広さで様々であるが、ハルツームのイスラム原理主義のへの動員に当たって、素朴なアラブ人のアイデンティティが、民族的アイデンティティまで高められた。水や草地を巡る争いは平常的にあり、それは伝統的な若い方法で解決されてきた。1984年と85年に東アフリカ全域で前例のない大干ばつが起こり、紛争が頻発したが、おおむねローカルに解決された。1995~99年アラブ民兵ジャンジャウィードと非アラブ系マサリト族の戦争が起こる。1996年初めてスーダン軍がアラブ人よりの紛争解決を始め、少なくとも2002年に初めてジェノサイドと呼ばれる規模の虐殺が起こった。2003年2月26日SLAがエル・ファシェルの基地などを襲う武装蜂起でダルフール紛争は勃発した。
現在アラブ・非アラブという二元論は成立しないと考えられている。主にハクラと呼ばれるあまりに伝統手的なだけの土地保有権と人口増大による過放牧、過耕作による砂漠化(1980年代の干ばつのショックも含む)で、土地問題が資源の問題の問題として先鋭化したことが原因である。これに対しアラブ人の定住化政策を意図したと見られるハルツームの介入がジャンジャウィードと空爆によるジェノサイドを生んだ。このように当論文は「アラブ」の概念に関し全くナイーブで2008年の時点の研究レベルが反映されていない。