1929年にニューヨークのウォール街に始まった大恐慌は、瞬く間に世界的な規模の不況に発展するところとなり、それ以後の経済学にも大きな影響を与えることになったのである。1929年代からすでに失業問題に苦慮してきたイギリスでは、30年には早くもこの問題解決のための経済諮問委員会が労働党政府により設置されている。このときの労働党政府はきわめて短命なものではあったが、委員会そのものは経済情報委員会に会組みされて、その後10年余りに渡って経済学者に意見公表の場を提供することになったのである。このような環境のもとで醸成された極めて政策思考の強い経済理論は、やがて1936年にケインズの『一般理論』としてひとつの頂点を迎えるところになるのである。
利子率に関する理論ひとつをとってみても、フィッシャーがこれをいわばミクロ経済学の視点から捉えようとしたのに対し、ケインズはこれにより政策合意を見出しやすいマクロ経済の視点から捉えようとしたのである。『一般理論』の中でケインズはフィッシャーよりも明確に古典派の利子率理論を批判したわけであるが、ここではその批判の骨子をまず整理しておくことにする。
「しかしながら利子率がこれを所与としたときの新規投資という形での貯蓄に対する需要と、これが与えられたときの社会の心理的な貯蓄性向の結果としての貯蓄の供給とを均衡させる要因だとする考え方は、これら2つの要素だけから貯蓄率を導出することが不可能であると気づいたときに挫折してしまう。」
まず、ケインズはフィッシャーが提唱した時間選好の概念を消費関数として次のように定式化した。以下、Yをマクロの所得、Cを消費、Iを外政的に与えられる投資として、
C=θ1+θ0・Y
θを定数として、マクロの所得は次のように定義される。
Y≡C+I
これらの式から次式を得る。
Y=θ/1−θ1+1/1−θ1・I
ケインズの一般論とヒックス
1929年にニューヨークのウォール街に始まった大恐慌は、瞬く間に世界的な規模の不況に発展するところとなり、それ以後の経済学にも大きな影響を与えることになったのである。1929年代からすでに失業問題に苦慮してきたイギリスでは、30年には早くもこの問題解決のための経済諮問委員会が労働党政府により設置されている。このときの労働党政府はきわめて短命なものではあったが、委員会そのものは経済情報委員会に会組みされて、その後10年余りに渡って経済学者に意見公表の場を提供することになったのである。このような環境のもとで醸成された極めて政策思考の強い経済理論は、やがて1936年にケインズの『一般理論』としてひとつの頂点を迎えるところになるのである。
利子率に関する理論ひとつをとってみても、フィッシャーがこれをいわばミクロ経済学の視点から捉えようとしたのに対し、ケインズはこれにより政策合意を見出しやすいマクロ経済の視点から捉えようとしたのである。『一般理論』の中でケインズはフィッシャーよりも明確に古典派の利子率理論を批判したわけであるが、ここではその批判の骨子をまず整理しておく...