二月の行事といえば節分が挙げられるが、これは古代宮中で行われていた追儺という行事が起源である。また追儺は、唐より伝来した大儺が由来であった。この儀式がどのように始まり、受け継がれてきたのか述べてみる。
大儺は中国では最も古い起源を持つ習俗で、周の時代に、十二月八日に臘祭として行われていたのが始まりと言われている。『荊楚歳時記』の記述を要約すると「方相氏が熊の皮を被り、黄金四目の玄衣朱裳のおそろしい格好で、戈と盾を持ち、子と称する童子を率いて鬼を追った」とある。また「鬼を追い払う為に、鉦鼓を打って儺声をあげたり、鬼が嫌う桃の弓で射る方法も用いられたりしていた」ともある。(参考文献二四一頁)この儀は、厄病を祓うことが目的であったようである。
日本では、文武天皇(六八三〜七〇七)の時代の慶雲三年(七百六)が所見である。式に先立って、まず方相氏を大舎人中の背の高い者、黄金四目の仮面と朱と黒の衣を着け、右手に戈、左手に盾を持ち、大儺とした。また官奴等二十人を持って、子と紺と朱の衣を着け、殿庭に列立したもの達を小儺とした。宮中では陰陽師が南殿のほとりで祭文を読み、鬼を追う役の方相氏が鬼やらいの声をあげ、子役の群臣が声を上げて大内裏の中を駆け回った。公卿がこれを清涼殿の端から、桃の弓、葦の矢を持ってひく。一行仙華門より入って、清涼殿の東庭に至り、滝口の戸を経て悪鬼を追って、四方の門より出て宮城門の外へ追いやった。京職がこれを受け継いで鼓騒して進み、郊外へ至った。こうして鬼を射て、門の外へ追い払った。日本でもこのように、中国の儀式とほぼ同じように行われたのである。
この儀が日本で行われるようになった理由は、次のようなことがあったからと思われる。
この時代藤原京では疫病が流行り、多くの人が亡くなっている。
二月の行事といえば節分が挙げられるが、これは古代宮中で行われていた追儺という行事が起源である。また追儺は、唐より伝来した大儺が由来であった。この儀式がどのように始まり、受け継がれてきたのか述べてみる。
大儺は中国では最も古い起源を持つ習俗で、周の時代に、十二月八日に臘祭として行われていたのが始まりと言われている。『荊楚歳時記』の記述を要約すると「方相氏が熊の皮を被り、黄金四目の玄衣朱裳のおそろしい格好で、戈と盾を持ち、侲子と称する童子を率いて鬼を追った」とある。また「鬼を追い払う為に、鉦鼓を打って儺声をあげたり、鬼が嫌う桃の弓で射る方法も用いられたりしていた」ともある。(参考文献二四一頁)この儀は、厄病を祓うことが目的であったようである。
日本では、文武天皇(六八三~七〇七)の時代の慶雲三年(七百六)が所見である。式に先立って、まず方相氏を大舎人中の背の高い者、黄金四目の仮面と朱と黒の衣を着け、右手に戈、左手に盾を持ち、大儺とした。また官奴等二十人を持って、侲子と紺と朱の衣を着け、殿庭に列立したもの達を小儺とした。宮中では陰陽師が南殿のほとりで祭文を読み、鬼を追う役の方相氏が鬼や...