『最後の女帝 孝謙天皇』を論評するにあたって、確認しておきたいのは、本稿は「『最後の女帝 孝謙天皇』の著者瀧浪貞子氏の説に対する個人的な意見及び疑問点」と「著書を読んでの感想」の2つの意味段落によって成り立っているということである。
それでは本論に入る。まず「著者の説に対する個人的な意見及び疑問点」について述べる。
読んでいてまず気がついたことが2つある。1つは自説を取り上げる時に、どうして説が成り立つのかという説明が欠けている点が多々見られたことである。
『最後の女帝 孝謙天皇』についての論評
『最後の女帝 孝謙天皇』を論評するにあたって、確認しておきたいのは、本稿は「『最後の女帝 孝謙天皇』の著者瀧浪貞子氏の説に対する個人的な意見及び疑問点」と「著書を読んでの感想」の2つの意味段落によって成り立っているということである。
それでは本論に入る。まず「著者の説に対する個人的な意見及び疑問点」について述べる。
読んでいてまず気がついたことが2つある。1つは自説を取り上げる時に、どうして説が成り立つのかという説明が欠けている点が多々見られたことである。私が気がついたところでは、39頁の野村忠夫氏への批評、88頁の「藤原京や平城京のように宮城の規模が大きくなると、遷宮の慣習は廃絶したち理解されがちであるが、実際には直接の在所建て替える形で伝えられていた。」(このことを著者は「宮内遷宮」と述べているが、これは著者が造った用語なのかどうかはっきりせずに用いられているところも腑に落ちない)と述べているところと、194頁の横田健一氏への批評の3点が上がった。
もう1つは、瀧浪氏は学者であるにもかかわらず、孝謙天皇に感情移入している点である。プロロ...