第1章満州事変
1931年9月18日満州事変が起きた。
満州事変は止めえなかったのだろうか。調書はまず「満州事変の根本原因は一つに日本国内で深刻な経済不況と政党政治への不満に根ざす、国家革新勢力の台頭があったからであり、他の一つは、中国において激しい排日の動きがあったからであって、そのよってくるところ遠く、かつ深い」と事前の外交努力によってとめることはほとんど不可能といっている。しかし調書は、日本に武力進出以外の道がなかったともいえない、当時の外務当局は満州事変前の内外の情勢の行き詰まりを打開しようとする「積極性に乏しかった」と切り返している。
例えば満州平行線交渉が考えられる。軍事力に訴えてもと満州の収益確保を至上命令としていたので、張学良と政治的話をつけることが考えられる。しかし張学良は満州全土を掌握できるような状態ではなかったのみならず、張学良の背後には蒋介石がいた。ナショナリズムの効用をもって日本との対抗の盾にしようとしていた蒋介石にとって張学良が勝手に日本と取引することは許しがたいことであった。満州平行線は満州を日本の政治的、経済的、軍事的支配から開放するための方策であり、対日圧力の手段として用いていた。そのため満州平行線問題は中国のナショナリズムの問題であった。蒋介石にとってナショナリズムをうまく利用して対日交渉を有利に進めたかったので、満州平行線問題は容易に妥協できるものではなかった。
こうしたなかで局面を打開するには英国、米国と日本が手を組んで国際圧力によって蒋介石と直接交渉するしかなかったであろう。そうするためには中国に死活的権益をもつ英国と協議して中国のナショナリズムの要求をどこまで認めるかについての腹を固めなければならなかった。
吉田茂の自問
第1章満州事変
1931年9月18日満州事変が起きた。
満州事変は止めえなかったのだろうか。調書はまず「満州事変の根本原因は一つに日本国内で深刻な経済不況と政党政治への不満に根ざす、国家革新勢力の台頭があったからであり、他の一つは、中国において激しい排日の動きがあったからであって、そのよってくるところ遠く、かつ深い」と事前の外交努力によってとめることはほとんど不可能といっている。しかし調書は、日本に武力進出以外の道がなかったともいえない、当時の外務当局は満州事変前の内外の情勢の行き詰まりを打開しようとする「積極性に乏しかった」と切り返している。
例えば満州平行線交渉が考えられる。軍事力に訴えてもと満州の収益確保を至上命令としていたので、張学良と政治的話をつけることが考えられる。しかし張学良は満州全土を掌握できるような状態ではなかったのみならず、張学良の背後には蒋介石がいた。ナショナリズムの効用をもって日本との対抗の盾にしようとしていた蒋介石にとって張学良が勝手に日本と取引することは許しがたいことであ...