マタイによる福音書25章には対の物語として二者が登場する。一方が祝福を受ける者、もう一方が呪われた者である。イエスは国民を善良な羊と呪われた山羊に分けた。当時は、羊の方は財産的に重要であったが、一見すると、羊と山羊は見分けがつきにくい。イエスが人々を分けた境目、つまり救われるかどうかの基準は純粋な愛に依るところが大きい。ところが、祝福を受けるべきとされた者たちは、自分の良き業を知らなかった。それは、あまりにも小さいものにすぎなかったからだろう。私たちは「小さな業の重さ」を理解できないゆえに、自分を大きく見せようとしてあれもこれもしたと、自分の業の大きさを誇る。愛を実現するためには偽善がつきまとわりやすく、本当の愛とは愛したことに気付かないほどのものである。イエスが私たちに示している教訓は、「かかわる」ということから始まると私は思う。人に人とのかかわりを持たせるものは思いやりという心である。また、私はマタイの福音書25章40節の「私の兄弟であるこの最も小さい者」はキリストの弟子を指すと考える。彼らはキリストと同じように苦しみ、迫害を受け、飢えや渇きや弱さの中に立つことで生きている。そして、45節に示されている「この最も小さい者」は社会的偏見によって小さくされた人を指すと思う。それらには貧しい者、子供、罪人、異国人、病人、卑しい職の者などの人々が含まれる。私たちが愛の業を行う時、どのような気持ちでそれを行うだろうか。飢えている人、のどがかわいている人、宿のない人、病気の人、牢にいる人を見たときあなたはどうするだろう。もし、あなたが飢えている人に食べさせ、のどがかわいている人に飲ませ、宿のない人に宿を貸し、牢にいる人を訪ねたとする。あなたはこれらの行いをなにゆえしたのか。
最も小さき者の友として
マタイによる福音書25章には対の物語として二者が登場する。一方が祝福を受ける者、もう一方が呪われた者である。イエスは国民を善良な羊と呪われた山羊に分けた。当時は、羊の方は財産的に重要であったが、一見すると、羊と山羊は見分けがつきにくい。イエスが人々を分けた境目、つまり救われるかどうかの基準は純粋な愛に依るところが大きい。ところが、祝福を受けるべきとされた者たちは、自分の良き業を知らなかった。それは、あまりにも小さいものにすぎなかったからだろう。私たちは「小さな業の重さ」を理解できないゆえに、自分を大きく見せようとしてあれもこれもしたと、自分の業の大きさを誇る。愛を実現するためには偽善がつきまとわりやすく、本当の愛とは愛したことに気付かないほどのものである。イエスが私たちに示している教訓は、「かかわる」ということから始まると私は思う。人に人とのかかわりを持たせるものは思いやりという心である。また、私はマタイの福音書25章40節の「私の兄弟であるこの最も小さい者」はキリストの弟子を指すと考える。彼らはキリストと同じように苦しみ、迫害を受け、飢えや渇きや弱さの中に立...