三四郎の冷めたともいえる客観的な視点には、読者に感想を押し付けない意図がある。無論それはライトノベルなどには見られない、空気を読ませる純文学的特徴であるのだろうがそれだけでは無いはずだ。近年の小説に見られるストーリー重視という傾向は、読者が物語の中に登場人物と同じ立場として入り込み、彼らの経験と感想の全てを一心に自分のものとして受け取るものである。読者は登場人物の明瞭なる心境を確実になぞっていくことで、全く同じ感想を胸の中に感じて本を閉じる。しかし「三四郎」はそうではない。主張が無いストーリー重視の近年の小説とは違う、実に技巧こらされた作品である。三人称話法でありながらあくまで視点は三四郎である。非常に詳細な情景描写は、確実に追うことで読者にはっきりとその風景を伝えてくる。リアルタイムで読む新聞小説のメリットが存分に生きている。全てが詳細なのではない。例えば「上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。」このような細かな描写の中に、時折混ぜられる抽象的な描写がメリハリを与え、読者は実に気分良くうっとりと、秋の中に立つ女を想像できるのである。
しかしその一方で、彼の心境や他の人物の心境は必要以上に語られない。すなわち余計な情報や明確な答えを読者に示していないのである。三四郎という青年の感情や人生を読み取らせていくのではなく、彼の視点を通して読者が各々の感想を常に抱いていくように出来ている。ストーリーを追い、三四郎の視点に立ち自ら考え悩むことによって、新たな感想、新たな問題を読者が自ら発見してゆくのである。物語だけを追って読んだのならば、現代に生きる我々にはいかにも退屈な小説になってしまうだろう。
三四郎 ――漱石の警告――
三四郎の冷めたともいえる客観的な視点には、読者に感想を押し付けない意図がある。無論それはライトノベルなどには見られない、空気を読ませる純文学的特徴であるのだろうがそれだけでは無いはずだ。近年の小説に見られるストーリー重視という傾向は、読者が物語の中に登場人物と同じ立場として入り込み、彼らの経験と感想の全てを一心に自分のものとして受け取るものである。読者は登場人物の明瞭なる心境を確実になぞっていくことで、全く同じ感想を胸の中に感じて本を閉じる。しかし「三四郎」はそうではない。主張が無いストーリー重視の近年の小説とは違う、実に技巧こらされた作品である。三人称話法でありながらあくまで視点は三四郎である。非常に詳細な情景描写は、確実に追うことで読者にはっきりとその風景を伝えてくる。リアルタイムで読む新聞小説のメリットが存分に生きている。全てが詳細なのではない。例えば「上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。」このような細かな描写の中に、時折混ぜられる抽象的な描写がメリハ...