地域文化論

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    地域文化論
    高橋涼介 20913690
    Ryousuke-pcp@a6.keio.jp
    オスマンの功罪
    パリの街の構造は日本のそれとは比べものにならないくらい美しい。特に凱旋門から新凱旋門、エッフェル塔へと続くリヴォリ通りから見る凱旋軸は一種の幻想的な風景を見ることができる。これはエッフェル塔を中心にして、高層ビル群が景色に入り込まないようにしてその周りに建設されて、綿密な都市計画があるために美しい景色を見ることができる。では、この美しいパリの原型のルーツはどこにあるのだろうか。それは150年ほど前にさかのぼることで見えてくる。
    ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンは1853年から1870年までセーヌ県知事であった人物であり、現在のパリの原型を作り上げた人物である。当時のパリの街は住民の汚物や廃棄物が無造作に捨てられ、またセーヌ川も家畜や住民の汚物が垂れ流しにされていたために汚れていた。また人口密度も過密だった。そのため、パリの衛生状態はきわめて劣悪でそのためにパリ市の人口は停滞しまた経済成長も停滞していた。また1848年に起きたフランス二月革命はこの狭く、混沌としたパリの街の助けがあって成功したものであった。
    このパリを改造したのがオスマンである。彼は当時の皇帝ナポレオン3世とともにパリ改造に取り組んだ。オスマンのパリ改造には明暗があるといわれている。まずは、明のほうから見ていこうと思う。
    パリ改造の目的は以下の5つの目的があった。
    区画整理によるパリ市の物流機能の改善
    パリの景観の刷新と保持
    パリ市民の治安や生活環境の改善
    インフラの整備
    雇用の創出
    の5つである。主な目的は上3つの項目であり、これらは近代都市への発展のモデルとして都市の歴史的意義的にもすばらしいものがある。また、下2つのうちのインフラの整備はパリの商工業の発展につながり、世界の都市建設計画のお手本とされた。雇用の創出のであるが、このパリ改造計画はパリ市の7分の3が取り崩されたといわれるほどの大規模なもので大量の労働者を必要としたので後に多くの雇用を生み出す結果となったのだった。
    これら一連の改造をオスマン化、オスマザスィヨンと呼ばれることもある。
     オスマンの手法を5つの中から見ると大規模なものの緻密な計画もあったと考えられる。英語のcityの由来とも呼ばれるパリ市の中心のシテ島を刷新したことによってパリ全体の雰囲気を変えたことは都市計画の全貌を市民に向けて情報発信をしているように思われる。また、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑制できたという点、経済の停滞が起こっていた当時に行った物流機能の改善や雇用の創出ができたという点については当時問題とされていたものに対して合理的かつ迅速に対応したものであったと思われる。この改造計画によってパリ市が近代都市として踏み出したことは間違いが無いだろう。
     視点を変え、東京と比べてみると幅員のある大通りやインフラの整備は同じように整備されている。しかし、東京はさまざまなデザインのビルや建築物が立てられており、画一性がない。新宿や渋谷がいい例だろう。この改造計画においてオスマンは統一的な都市景観になるようにあらゆる方法をとった。大通りに面した建物の高さを定めたほか、壁面の色、石材の材質の指定、屋根の形や看板の有無といった景観に関しては細部までこだわっていることがわかる。このオスマンによる、統一的な都市計画は今のパリの美しさにつながると考えられる。また王室宮殿に当時の若手建築士を用いたことは海外でのナポレオン3世の威光を高めたであろうと考えられる。都市計画の中での景観の保持というものは市民の生活環境改善やインフラの整備による経済成長と並んでオスマンの功績の一部であろう。
     一方で、オスマンの行ったパリ改造の暗の部分を考えてみる。暗の部分を考えるときに東京の単純な事実と比較してみる。東京の浅草や台東区周辺には下町と呼ばれる一種のコミュニティが存在する。これは江戸時代から続く街並みや文化がそこにあって、その文化が今でも破壊されずに続いているのでそう呼ばれるのである。パリも同様に10世紀ごろからすでに大きな町として栄え、19世紀後半まで独自の雰囲気や文化、町並みを持っていた。しかし、オスマンのパリ改造計画によって、パリ中心部に存在したパリの下町(特にシテ島)というものはすべて破壊されてしまった。下町というコミュニティがなくなってしまったと考えられる。実際、パリ市も改造計画の50年後には近隣関係が薄い状態になってしまったといわれている。また、パリの中心部ばかりが栄えることとなったためにパリ市の外周部は貧困層が住み中心部は富裕層が住むという住み分けが進んだことによって、シャンゼリゼ通りのような華やかな通りが出現した一方で、外周部は発展が徐々に遅れ貧富の格差がより大きく拡大してしまった。この二つの暗の部分がオスマンの失敗であろうと考えられる。しかし、この暗と明は表裏一体であると考える。
     オスマンは当時の最先端都市計画を実行したばかりか、後世の世界中の都市計画において多大な影響を与えた点においてすばらしい功績を残したとかんがえられる。
    参考文献
    パリの歴史 
    イヴァン・コンボー著 小林茂訳
    白水社
    2002年
    よろしくお願いします。
    20913690
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