明治から昭和20年の終戦まで、教育課程の中で「体育」という言葉が使われることはなかった。それまでの運動的な教科は体育という言葉の代わりに体操・遊技・教練・体練などと呼ばれており、主に軍事体制に大きな影響を受けた教科であった。しかし、こうした軍事的な影響を受けながらも、学校教育における「体育」というものを確立しようとする動きは見られ、明治30年に川瀬と井口がスウェーデン体操を紹介(ダンスや遊技を授業に取り入れることなど)したり、明治40年には永井によりスウェーデン体操の内容が本国のものとは違い、競争や球技、レスリングなども加えて行われていることが明らかにされたりするなど、当時のヨーロッパ体操の自由で形式性のない内容が我が国にも移入されようとしていたのである。しかし、形式的で型にはまった動作を必要とする軍隊の影響から、必ず形式的なものへとかえられてしまっていたのである。しかし、この時代の日本においての社会的要請、つまり軍事教練としての体育という考え方に、ヨーロッパの自由で新しい体操という概念では答えることが出来なかったのである。
終戦後、アメリカの占領政策のもと学校体育指導要綱が定めら...