宗教とは何か。何の為にあるのか。何故求めるのか。手垢で赤黒くなっているような表現を使えば、救うため、救われる為にある。救われるというのは、ある種の欲望を美しく表したにすぎない。兎にも角にも宗教をするというからには、全力で満たし満たされなければならない。お互いに責任が伴い、どちらかが音を上げても成立しない。嘘ならば嘘を最後までつき通さなくてはならない。捨てるならば、振りかえってはならない。残しておきたいならば、道を確保するべきだ。それは最低限の礼儀でもある。極論を言うのならば、善は騙し通す事。悪は投げ捨てる事だ。信じる人を泥舟に乗せてはいけない。また、信じる事を止め、無闇矢鱈に碇を落としてもいけないのだ。
壁
愕然。この言葉こそが数時間前の私を端的に表している。釈尊は定に入っている際に「雷光が閃き、雷電がとどろいて、二人の農夫と四頭の牛が殺されたけれども」それに気付かなかったそうだが、私の場合、集中し全神経を注いでいる『そのもの』に打撃を受けた。無慈悲ともいえる洗礼から得たものは『猜疑心』である。
今回の課題で私が選択したものは『密教系新宗教』のオウム真理教だった。遡るに10年前の事件は、当時小学生の私にさえ強いイメージを植え付けた。それらの中核をなすものは絶対悪と表現するのが正しい。教理も組織形態も果ては密教という言葉さえ知らなかった私は、『世の中にはカルト的に人間を操り殺人兵器にする悪い人間がいるのだ』と思っていたに違いない。宙に浮く麻原彰晃に対する多少の憧れと、ブームを巻き起こした『マインドコントロール』という単語が『オウム真理教』だった。
あの時に信者として集った若者と現在の私との違いは、麻原彰晃が悪か悪でないかを知っているその一点に尽きる。当時の若者並びに私は、オウムの教理と密教の教理を比較する事が出来たとしても、具体的に『麻原彰晃』を批判する事は難しい。私など特に、前期の授業...