言語論的な転回以前の言語観が何であるかを「意味の観念説」を中心に説明する。
はじめに、言語論的な転回以前の言語観において、観念とは、非常に重要なものであった。例えばロックは『人間知性論』の中で言語表現を理解することは、心の中に観念やイメージを想い起こすことであるという立場を著している。ロックの「観念」は、言語使用者個人の心の中に存在する。フレーゲ以前はこのように、観念は一人の人間の意識の中にある私秘的なものであるとされ言葉や言葉の意味を語っていた。これが「意味の観念説」である。しかしこの観念の性質ゆえ、ある問題が生じる。例えばここで月を望遠鏡で見る例を挙げると、レンズの像は観測者が代わる代わる交代で見ることで共有できる。しかし網膜の像は一人の人間の経験であり、イメージである。これは誰とも共有できず私秘的である。観念とはそのようなものである。それが言葉や言葉の意味(この例では月を指す)を語っているとしたら、この例の観測者たちそれぞれの観念が同一の言葉であること(この例で同一の月を見ていること)は保証されない。
哲学と倫理
言語論的な転回以前の言語観が何であるかを「意味の観念説」を中心に説明する。
はじめに、言語論的な転回以前の言語観において、観念とは、非常に重要なものであった。例えばロックは『人間知性論』の中で言語表現を理解することは、心の中に観念やイメージを想い起こすことであるという立場を著している。ロックの「観念」は、言語使用者個人の心の中に存在する。フレーゲ以前はこのように、観念は一人の人間の意識の中にある私秘的なものであるとされ言葉や言葉の意味を語っていた。これが「意味の観念説」である。しかしこの観念の性質ゆえ、ある問題が生じる。例えばここで月を望遠鏡で見る例を挙げると、レンズの像は観測者が代わる代わる交代で見ることで共有できる。しかし網膜の像は一人の人間の経験であり、イメージである。これは誰とも共有できず私秘的である。観念とはそのようなものである。それが言葉や言葉の意味(この例では月を指す)を語っているとしたら、この例の観測者たちそれぞれの観念が同一の言葉であること(この例で同一の月を見ていること)は保証されない。
フレーゲは1892年の「意義と指示」という論文の中で、すべての言語...