宗教における因果律と予定律について論じている。
特に予定律は不合理なのか、という視点に立ち論じている。
宗教を分類する一つの方法に、因果律と予定律で分けることができる。これは、まさに相対するものである。
因果律とは、仏教の中に見られる思想であり、今起こっている結果は前世に原因があり、今起こっている事柄が原因となって来世に結果として出現するというのである。つまり、全ての事柄において原因と結果が存在しているのである。とするならば、来世において善の結果である人間や天人になるためには、当然現世で善業に励む必要があるのである。
対する予定律とは、キリスト教の中に見られ、宗教改革者ジャン・カルヴァンが提唱した思想である。彼によると、「救いは神が予め定めていることであり、人間がいくら善業を積んだとしても、それによって救いを得ることはできない」としたのである。
さて、これら2つの思想を比べると、多くの人が因果律は頷けるが、予定律は不合理に感じることだろう。たしかに神がもうすでに結果を定めているのなら、善い行いをするのが馬鹿らしくなってしまうだろう。しかし、本当に予定律は不合理なのだろうか。カルヴァンはどのような意味を込めて予定律を考えたのだろうか。
まず、予定律が生み出された当時の背景を見ていきたいと...