仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに六世紀の初めに信奉されていたと考えられるが,五三八年、百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときが仏教公伝とされる。摂政聖徳太子の推古朝に,仏法興隆の道がひらけた。太子は仏教に深く帰依し,法華・勝鬘・維摩の三経の注釈書,いわゆる「三経義疏」を著した。五九四年、有名な三宝興隆の詔が出され,これを契機に臣 ・連などの豪族が競って寺を建て,またその第二条に「篤く三宝を敬え」の有名な文言がある十七条憲法は今日偽斤説が主張されるが,それでも太子の政治思想が,仏教を根幹に置いて,その普遍的な教理思想のなかで国家統一を志向したことは確かであろう。
そのようななか奈良時代の仏教は国家仏教の性格をますます強めた。中国で形成された抑舎 ・三論 ・成実・法相・華厳・律の六つの宗派,いわゆる南都六宗が留学僧などによって,この時代に奈良の寺院に伝えられた。奈良の都に多くの大寺が建立されたのも,この時代の特色である。
ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平...