1.同和教育のあゆみ、歴史、戦後の取り組み
戦後の混乱も終息しはじめたころ、部落は戦前の劣悪な環境のまま放置され、民衆の部落に対する差別意識も戦前と変わらない状況であった。また教育面では、部落の児童・生徒の長期欠席・不就学が大きな問題として取り上げられるなど、戦後の民主化の改革は部落問題の解決までには至ってはいなかったのである。
1951年 京都市では同和地区の児童・生徒の長期欠席・不就学数が市平均の10倍という高さであった。そのため、部落解放委員会京都府連合会は同和地区の「不就学児童を無くする対策を即時に立てること」を同和教育行政における最重要課題と位置づけた。これを受けて京都市は戦後初めて同和教育費200万円が1952年度の予算として計上した。
1960年代 同和教育は学力・進路保障への取り組みに変わっていく。これは、これまで長期欠席・不就学の問題が先立ち、直視されてこなかった進学率の低さ、その低学力の実態が浮き彫りにされたためである。具体的な取り組みとしては「進学促進ホール」の開設が挙げられ、進学率はその後の10年間で全市と肩を並べるほどになった。
1970年代 後半から...