要約:
シオニズム運動の起こり
1896年、テオドール・ヘルツル著の『ユダヤ人国家』が発行された。この時期、ヨーロッパでのそれまでのユダヤ人迫害運動は「解放」の方向に徐々に動きつつあるが、一方で多くのユダヤ人は、宗教はあくまで個人の内的な問題であるとして、ドイツ人あるいはフランス人になりきろうとする「同化」が進んでいた。ヘルツルの評論対象はドレフュス事件を機に、その関心がユダヤ人問題に絞られた。
ドレフュス事件において当時のフランスのマスコミがこぞって反ユダヤ主義の論調を掲げたことに対し、ヘルツルは、ユダヤ人の国が再建されない限り、真のユダヤ人の解放はありえないと考えた。
すでに19世紀後半以降、反同化運動やポグロムを避けてパレスチナへ移行する動きもあったが、ヘルツルは、1897年にシオニスト会議を開いた。これが近代シオニズム運動の組織的活動の始まりである。
シオニズム運動とパレスチナ
パレスチナとユダヤ人の結びつきは、旧約聖書に「パレスチナ=カナンの地」とされたことにはじまる。前6世紀のバビロン捕囚でユダヤ人は散り散りとなり、メシア=救世主待望の思想が生まれることにつながった。この宗教的信条を近代的民主主義の衣でつつみ、政治運動へと発展させたのがシオニズム運動である。
パレスチナへのユダヤ人入植
パレスチナは16世紀以降オスマン帝国領であったが、19世紀末ごろから新しいユダヤ人社会を建設しようとの理念を掲げ、ヨーロッパからユダヤ人の移住が始まった。これらの移民は「アリア」と呼ばれ、彼らはロスチャイルド家等のユダヤ人大富豪の援助を受けて土地を購入し、開拓農村を建設した。
立山良司著『イスラエルとパレスチナ』第1章「パレスチナ問題の発生」について
要約:
シオニズム運動の起こり
1896年、テオドール・ヘルツル著の『ユダヤ人国家』が発行された。この時期、ヨーロッパでのそれまでのユダヤ人迫害運動は「解放」の方向に徐々に動きつつあるが、一方で多くのユダヤ人は、宗教はあくまで個人の内的な問題であるとして、ドイツ人あるいはフランス人になりきろうとする「同化」が進んでいた。ヘルツルの評論対象はドレフュス事件を機に、その関心がユダヤ人問題に絞られた。
ドレフュス事件において当時のフランスのマスコミがこぞって反ユダヤ主義の論調を掲げたことに対し、ヘルツルは、ユダヤ人の国が再建されない限り、真のユダヤ人の解放はありえないと考えた。
すでに19世紀後半以降、反同化運動やポグロムを避けてパレスチナへ移行する動きもあったが、ヘルツルは、1897年にシオニスト会議を開いた。これが近代シオニズム運動の組織的活動の始まりである。
シオニズム運動とパレスチナ
パレスチナとユダヤ人の結びつきは、旧約聖書に「パレスチナ=カナンの地」とされたことにはじまる。前6世紀のバビロン捕囚でユダヤ人...