一 近世当時、一流の呉服店では、見世物商いと屋敷売が広く行われ、決済には二節季払かまたは極月払による掛売が慣例となっていた。このような取引は主に大名や武士、並びに大きな商家を顧客とする商いであった。高利はこれに対抗する新商法をつぎつぎ考え出し、実行した。その一つは諸国商人への卸売、不特定大衆相手の「現銀掛値なし」の店前売り、現金取引を行ったところにその革新性があった。
両替商としては、幕府の大坂御金蔵から江戸御金蔵への公金の送金と、公金為替(御金蔵為替)取組みを請け負ったことが注目される。
高利の死後は、三井同族の事業全体を統轄する機関として大元方が設置され、高利の子供たちによる合名会社的共同経営となるが、大元方の営業財産の推移は一八世紀後半ごろまでは飛躍的に増加していったが、一七七〇年代をピークとしてそれ以降は横ばいとなり、幕末においては呉服業は不振で両替屋の利益によってかろうじて三井家が維持されていたほどである。
維新以後もなお沈滞を続けていた三井家に、一八九〇年前後にこれを打ち破る重要な出来事が相次いで発生するが、その一つが三池炭鉱が払い下げられたことである。
二(一) 丁...