日本の詩の歴史
今回は日本詩の歴史を戦前詩、戦後詩、女性詩の視点から検証してみた。金子光晴、草野心平、新川和江の3人の詩を論じてみたいと思う。
金子光晴の「くらげの唄」を読んで
この詩を読んだとき、どことない哀愁にも似た脱力感を感じた。本編に登場するくらげは自分のことを確認するように、何回も定義している。己が何者なのかわからず、ただただ波に身を任せている。もしかしたら「自分が何者なのか」ということは、くらげ自体さして重要だと思っていないのかもしれない。「元の自分はこんな姿ではなかったこと」、そして「波にゆられ疲れ果ててしまったこと」のみを自覚し存在している姿は私にはなんとも悲しげに映った。
私が最も興味を持ったのは
心なんてきたならしいものは
あるもんかい。いまごろまで。
はらわたもろとも
なみがさらつていつた。
の部分だ。心は波にさらわれたと言っているにもかかわらず、心を汚いものと認識し、その口調も強調されているように感じられる。かつて自分が持っていた心を嫌悪しているのか、それとも心をさらっていった(そして自分をここまで透き通らせ疲れ果てさせた)波を嫌悪しているのか。定かでは...