王維の作品を読んで疑問点を一つ取り上げ、それに対する自分の考えを述べよ。
『王維の作品を読んで疑問点を一つ取り上げ、それに対する自分の考えを述べよ。』
王維の『王右丞集』にて「偶然作」とする五言律詩のうち、「其六」にある作品に注目する。
それは「老来懶賦詩 惟有老相随 宿世謬詞客 前進応画師 不能捨余習 偶被世人知 名字本皆是 此心還不知」である。王維は、自分の選んだ詩作という道は余技であって自分に適しておらず、前世は画家になるべきだった、また本筋としては、仏道修行に入るべきだったと「偶然作」で詠じている。そこまで言うなら、なぜ王維は仏道修行に入らなかったのだろうか。
王維と仏教の関係は、まずその字に見ることができる。母の崔氏は、大照禅師普寂に師事した敬虔な仏教徒だった。その影響を強く受けたためか、後に自らを摩詰と字した。名と字を続けると「維摩詰」となり、仏典『維摩経』の主人公である居士の名となる。
仏教への篤信は、王維が道友の胡居士に寄せた詩にも見ることができる。
「了観四大因 根性何所有 妄計苟不生 是身孰休咎」(『胡居士臥病遺米因※(貝扁に會)』)
この頃の詩に「帰嵩山作」がある。王維は一時期、禅宗の開祖とされる達磨の面壁九年の故事で知られる嵩山に...