アメリカのクリントン大統領がロシアのエリツィン大統領に『日本人のイエスはノーだ』という発言をして、多少物議をかもした。日本人のイエスはノーなのだろうか。このことと関連して思い出すのは、ドナルド・キーンの発言である。『日本語では、あいまいな表現を正確に使わなければならない。』と彼は言ったのである。例をあげると『コーヒーを飲もう』と言うのは誤りで、『コーヒーでも飲もう』と言うのが正しい。このことから、非常に日本文化の本質を含む着眼であるように思えてならない。というのは、以前から、日本文化には、あいまいなものこそよいことであるという感覚が濃厚にあるように感じられてならないからだ。
日本人はノーが下手だという認識がずいぶん行き渡っている。『NOと言える日本』という書題がインパクトがあったのも、その認識が行き渡っているためだろう。その意見に反対ではないが、日本人が下手なのは、『ノー』の返事だけでなく、『イエス』の返事も下手なのだ。そして、ここで『下手』と言っているのも、実は少し適切さを欠いている。日本ははっきり返事をすることそのものを、下品なこと、丁寧でないこと、という価値観あるいは感覚を持っているのだと思う。そういう捉え方が、私たち日本人にとってもっともフェアな立場なのではないだろうか。この、あいまいさ志向の差は、欧米人と、その国で買い物をすると、価格が高すぎるという意見を、率直に彼らが口にするのに当惑することがある。
この『あいまいさ』文化を私たちがもっとも感じるのは、ある日米比較調査の質問用紙に、自分自身に当てはまるものに○をつけてもらう質問があり、そのなかに『容姿が美しい』という項目があったときのことである。調査対象者は、日本もアメリカも、年齢や職業が全国民のミニチュアになるように作成されたランダムサンプル1000人だった。
アメリカのクリントン大統領がロシアのエリツィン大統領に『日本人のイエスはノ
ーだ』という発言をして、多少物議をかもした。日本人のイエスはノーなのだろうか。
このことと関連して思い出すのは、ドナルド・キーンの発言である。『日本語では、あ
いまいな表現を正確に使わなければならない。』と彼は言ったのである。例をあげると
このことから、非常に日本文化の本質を含む着眼であるように思えてならない。とい
うのは、以前から、日本文化には、あいまいなものこそよいことであるという感覚が
濃厚にあるように感じられてならないからだ。
日本人はノーが下手だという認識がずいぶん行き渡っている。『NO と言える日本』
という書題がインパクトがあったのも、その認識が行き渡っているためだろう。その
『イエス』
の返事も下手なのだ。そして、ここで『下手』と言っているのも、実は少し適切さを
欠いている。日本ははっきり返事をすることそのものを、下品なこと、丁寧でないこ
と、という価値観あるいは感覚を持っているのだと思う。そういう捉え方が、私たち
日本人にとってもっともフェアな立場なのではないだろうか。この、あいまいさ志向
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