書評:永井均『これがニーチェだ』(講談社、1998)

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    資料紹介

    <要旨>(1,420字)
    ニーチェの思想は、世の中の向上のためにならないどころか、人間社会の構成原理と両立しがたい部分を含んでいる。しかし、それこそがニーチェを稀に見る偉大な哲学者にしている。また、ニーチェは思想家ではないが、思想家としてみれば世界解釈の覇権を完全に奪われた敗北者である。しかしその敗北の完璧さによって逆に、ニーチェは今日の時代の本質を射抜いている。だからこそ、現代においてニーチェの思想を後ろ盾にしてものを言う人間、ニーチェの思想を心から愛する人間には警戒心が必要なのである。
    神の死ということには三種類の意味がある。まず、無からキリスト教の「神」が誕生したことによる<神>(神性一般)の死、そして同時に育っていた誠実な真実を追い求める心が暴いた「神」の死、更に徹底的に「神」が死ぬことによる<神>の復活である。ではそもそも、なぜ無から「神」が誕生したのか。それは、僧侶による価値転倒のパースペクティヴのためである。さ迷える魂は、その内部で意味のない苦悩に意味を見出すことが可能となり、魂の奴隷となった。そして、キリスト教に由来する真理への意志は、やがてそれを暴くのである。では、その「真理への意志」自体は一体何を意味しているのか。
    「力」とは、自らの観点から他の全てを解釈してしまえる立場にあることである。人はその地点に立つことを常に望んでいる。これが「力への意志」だ。第一空間ではそれは「真理への意志」として現れていた。パースペクティヴ間の闘争とは、何を価値とみなすかの奪い合いである。そこに勝敗はなく、ただ敗れれば消滅するのみである。それを認められない弱者は自分のパースペクティヴの特権的優位性を主張せずにいられない。

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    永井均『これがニーチェだ』(講談社、1998)
    <要旨>(1,420字)
    ニーチェの思想は、世の中の向上のためにならないどころか、人間社会の構成原理と両立しがたい部分を含んでいる。しかし、それこそがニーチェを稀に見る偉大な哲学者にしている。また、ニーチェは思想家ではないが、思想家としてみれば世界解釈の覇権を完全に奪われた敗北者である。しかしその敗北の完璧さによって逆に、ニーチェは今日の時代の本質を射抜いている。だからこそ、現代においてニーチェの思想を後ろ盾にしてものを言う人間、ニーチェの思想を心から愛する人間には警戒心が必要なのである。
    神の死ということには三種類の意味がある。まず、無からキリスト教の「神」が誕生したことによる<神>(神性一般)の死、そして同時に育っていた誠実な真実を追い求める心が暴いた「神」の死、更に徹底的に「神」が死ぬことによる<神>の復活である。ではそもそも、なぜ無から「神」が誕生したのか。それは、僧侶による価値転倒のパースペクティヴのためである。さ迷える魂は、その内部で意味のない苦悩に意味を見出すことが可能となり、魂の奴隷となった。そして、キリスト教に由来する真...

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