両者の立場は随分異なるが、ここで興味深い点は、朝鮮通信使をめぐって、朝鮮のほうは当然日本を夷狄と考えているが、日本は朝鮮を夷と捉えている点だ。朝鮮にとって、日本へ通信使を派遣するのは、日本からの要請に応じた形式を通し、自国優位の論理にたっているように思える。使名を通信使として、交隣友好を使命としてからは、使節団に多くの文化人を加え、文化的優越意識をもって対日外交を貫こうとした姿勢がみられる。これらを考えても、明らかに両者の考えは矛盾していると感じる。
「通信」とは「信(よしみ)」をかわすという意味で、本来は友好親善の使者という意味だ。その実務を担当する対馬藩にあって、主導的な活躍をしたのが、日朝友好に生涯を捧げた雨森芳洲(1668〜1755)だった。芳洲は「欺かず、侮らず、誠の精神」を基本精神として隣国朝鮮と接した。1990年に韓国の盧泰愚大統領が日本へ来た時の国会演説で、このことが話題になり一躍有名になった。「外交の基本は真心の交わりである」と、『誠信外交』を唱えた。「外交においては相手方のこころを知り、まずそれを尊重しなければならない」「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信である」というのが芳洲の考えだった。残念ながら明治時代以降の一時期、日韓関係は、日韓併合などで決して友好関係とは言えなかった。北朝鮮との関係は今も途絶えたままで、最近では悪化する一方である。このような時だからこそ、雨森芳洲の『誠信外交』は思い起こされるべきではないだろうか。
朝鮮通信使について
朝鮮通信使について、と言っても、高校の教科書でちらりと触れた以外、ほとんどその詳しい内容について知る機会がなかった。またあまり興味がなかったのも事実だ。しかし、今回このレポート作成において朝鮮通信使の詳しい内容や意義を知るうちに、現代の対朝鮮半島外交において欠けている要素の一つが隠されているのではないかと感じた。
朝鮮通信使と聞くと、江戸時代がイメージされがちだが、その始まりは室町時代の1404年までさかのぼる。倭寇で困っていた朝鮮国が、倭寇を退治して安定を求めるのではなく、国交を結び交流し、貿易を正式に認めることで対応しようとしたのが始まり。以後、朝鮮からは「通信使」日本からは「国王使」が派遣されることになった。
その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって両国の友好関係が途絶えたが、徳川幕府によって再び修好関係を築きあげることに成功する。その頃、朝鮮半島の北方では、女真族が急激に勢力を伸ばしつつあり、朝鮮側としては南北から攻撃される事をおそれ、南方の日本との関係を修復することが、女真族に備える第一歩であると考えたのではないかと言われている。...