鼻ゴーゴリ平井肇訳

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    資料の原本内容

    鼻 ゴーゴリ 平井肇訳
    ゴーゴリの鼻の読んだ結果、僕の二つの考察を以下に述べる。

    一つ目は、鼻が独り歩きするというとてもユニークなストーリーについてである。僕はまず読んだときに、自分の体の一部が身体から離れて独立する、こんなことをよく考えついたものだなと感じた。しかし、ロシア人にとってこのような発想は実は予想外ではないのではないかという考えを持った。その根拠として、例えば英語の表現に”I kiss her on the lip.”という文章がある。これは「私は彼女の唇にキスをする」という意味だが、日本人の僕らはこの日本語を英訳するとき、よく”I kiss her lips”とし、”on the”を抜いてしまう。ここで”on the”がないとあたかも唇が独立して存在していてそれにキスをするようなイメージになるそうだ。実はロシア語にも同じような表現があり、”on the”にあたる表現がないと、やはり同じイメージになると考えられる。つまり、表現方法を少し間違えただけで、体の一部が独立するという現象は簡単に起こるのである。(もちろん日本語にはそういった表現はない。)このことからロシア人が「鼻」を読んだとき、日本人ほどそのストーリーに驚愕することはないのではないだろうか。

    二つ目は平井肇の訳の仕方についてである。残念ながらロシア語の原文はまだ読んでいないので、細かな表現ついては言及できないが、彼の訳は全体を通して、子供の絵本を読んでいるかのように感じた。この根拠として、擬態語や、「!」を多用していること等があげられる。しかしそれと同時に普段使わないような古語めいた言葉も使っている。(「南無三!」や、「暇」等)。こういった異なった種類の表現方法を併用することは、人によっては下手な訳と思われたり、原文に忠実に訳しているに違いないと解釈されたり、さまざまな見解が予想されるが、僕はこの表現の仕方にある種の芸術感(ここでいう芸術とは人やものごとの本質的な部分を描き、感動をもたらすものと定義する)を見出している。上記の二つの表現は逆説的な要素をもち、おおげさにいえば矛盾しているともいえる。矛盾とは理論的な見地からすれば排除される概念だが、僕たち人間、あるいはこの世の本質的な概念であると僕は考える。(たとえば「今、現在」という概念は厳密には存在していないが、存在している、という考え方やこの世には始まりが存在していない、といった考え方、これらは矛盾という概念として説明できる。)要するに、平井氏の訳はある種の矛盾を描くことによって、僕にある種の感動を与えたのである。
    最後に本作品を読むことによって、ロシア文学への興味をよりいっそうもつ契機になったことを僕は非常にうれしく思う。今後は別のロシア文学作品や、別の翻訳家の作品も読んでみたい。

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