Z1106 佛教大学通信 道徳教育の研究 A判定 「生きる力」の育成と道徳教育について述べよ

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    資料紹介

    評価はBかCで返ってくると思っていましたが、A判定で帰ってきました。吃驚しましたが^^;

    私は資料の販売は積極的にはしようと思いません。どちらかというと、PCというインターネット回線を通して、佛大卒業者のパーセンテージを上げたいと考えております。ですが、この資料を盗作しろ!というわけではありません。そんなことをすれば、大学側からD判定を貰うのは間違いありませんから。あくまで、参考資料として目を通しておいてもらえれば嬉しいと思っております。そして、このインターネットという見えない世界を通して、佛教大学卒業と教職を皆で取っていきたいというのが切実な願いです。

    皆さん、お互いに頑張っていきましょうね(^^)v

    この資料が、貴方のレポートを書く上で良き資料となりますように(-人-)南無

    (注意)資料の丸写し、盗作がないようにお願いします。きちんと文章を作り変えてください。

    資料の原本内容

    何故、学校を通して道徳教育が必要かというと、「社会に適応していくため」に道徳教育が求められるのである。現代の社会では、五教科(英語・国語・数学・社会・理科)偏重というような偏差値重視が未だに蔓延っているのも事実である。しかし、この教科ができても英語では「アカデミックボーイ(Academic Boy)」といわれ、「言われたこと」だけをできるような少年を指しているのである。例えば、算数の問題があっても、1+1=2というように、計算からの発想転換ができないことをさしている。国語でも、文章中に「それ」とは何ですか?ということをできたとしても、「それ」だけは答えることができるが、「それ」以外には深く考え、何故そうなるか?というような教育がされていないのである。
    五教科がでてきも、社会に適応できない人間は現代の社会を通しても明白である。韓国の自殺者までとは行かないが、日本では自殺者が毎年3万にものぼり、うつ病患者の増加が近年社会問題化しているのである。そのような解決策として、道徳教育が必要となってきている。それは5教科偏重教育では解決できないものが多い。道徳を学ぶことにより、人への敬愛・尊敬・誠意・自尊心・自立心・自己達成など多くのことを目標におくことが望ましいのである。それが人として生きていく中での基盤ではなかろうか。
    しかし、アカデミックボーイには何が欠落しているかと言うと、道徳なのである。何故、高学歴でも失敗し、低学歴でも成功するというような事例が日本では実しやかに囁かれるのだろうか?それはストリートボーイと言われる社会適合者が存在するからである。ストリートボーイの特徴は、発想の転換や頭の回転の機転がものを言うのである。いわゆる、突発的な出来事や物事を俊敏に解決する策、発想の転換を俊敏にできることを意味し、人間性や道徳に対しても重視するのである。そして、常に自己肯定的に物事を解決し、ピンチをチャンスに考える頭脳を持っている。そして、非常に向学心や向上心が強く、失敗や挫折をしても挫けないというタフな精神力や意志力も持っているのである。これが道徳を通して作り上げていかなければならない教育なのである。
    次に、日本の道徳は日本人独特の「武士道精神」や古代中国の「菜根譚」などの思想が非常に多く残っている。昔から、武士道は「男尊女卑」を行っていたと言うが、これが誤解である。武士道は男女ともに平等に扱うという精神を持っている。次に、敵対する相手に対しても、平等に扱うと言うようなことを言われる。敵の主君が他界したとしても、その敵の勢力に対して弱みに付け込むようなことはしない。これは弱者救済にも繋がるのである。現代の社会の中で、道徳を軽んじている会社は非常に多い。これが苛めや本能のままに生きていることを指しているのである。道徳は人間の本能を押さえ、如何に理性的に対処するかというようなことが行われているのである。
    道徳には「愛国心」というのも必要になってくる。今現在に、極左の人たちが「愛国心が戦争を引き起こす」というのは大きな間違いである。どこの世界にも愛国心はあり、国を守ろうとする行為は何処の国でも同じである。生まれた土地、生まれた故郷を思うのは必要不可欠な存在であり、自分のアイデンティティにも繋がる。愛国心があることで、自分達の文化への敬愛や尊敬も生まれるのである。そして、それは人間としての今まではぐくんできた日本人の伝統の根幹にも繋がるのである。  現代社会の中に考えられる「うつ病」というものがある。私はこれを社会不適合者とは呼ばない。これは道徳心や社会に対しての「解決策」が道徳により育まれなかった人たちだと考えられる。道徳といっても、非常に幅広い。それは人生を生きていくために自分に対する自己啓発的なものであり、自己解決策でもある。例えば、「切り返し」というものがある。切り返しは、一つ一つの問題に対して対処し、陰鬱な気分さえ切り離すことができることである。これはグローバル化や社会構造が複雑になるにつれ、人間関係も複雑になるにつれて人間が持たなければならない「業(ワザ)」である。人は切り返しをすることによって、「未来」を進むと言う行為を行い、「考え」を変えることに繋がるのである。また、私の経験では切り替えしというものが非常に下手な人間でした。気分が前に進まなく、過去ばかりに捉われて、気分が憂鬱になるのです。これは負のサイクルの悪循環にも繋がります。大人になればなるほど、人は過去に捉われすぎることが多くなり、不思議と未来と言うものを見ないのです。その対処法として、道徳や自己解決策なども自分の技として必要になってくるのです。それとは対等に、子供は常に「未来」を見ています。子供でうつ病になると言う人は果たして何人いるでしょうか?大人が鬱病になる数の1割にも満たないのではないでしょうか?人は未来(希望)を持つことで、前に進むことができ、常に自己肯定に繋がるということです。失敗のない人間はいません。むしろ、失敗してこそ人間形成ができるのです。そして、人は「次に二度としまい」と決心をし、心に刻み込み、血と骨となり、遺伝子に刻み込むのです。
    次に、道徳はやはり内容は広いですが、中には「割り切り」というものも含まれています。これは人間の善悪を区別するために必要な道徳的な業だと考えています。例えば、Aさんという人がいたとして、我々はAさんを全肯定するわけでもなく、全否定するわけでもないということに着目しなければなりません。もし我々がAさんを全否定するのであれば、我々は人種差別主義者の類になってしまうかもしれません。要は、第一段階で人間は好きと嫌いで見てはいけないのです。好きか嫌いという感情で人を見るのであれば、我々は反省しないといけません。なぜなら、好きと嫌いで人間を見てしまえば、相手の欠点や利点が目につかなくなり、感情に流されて敵対心を生んでしまうからです。敵対心を生めば、自分も嫌われてしまいます。このような人間的な悪循環を生まないように、まず第一に「割り切り」ということが必要なのです。割り切ることによって、人間の利点・欠点を区別し、互いに人間性を認め合い、実力も認め合うということが大切なのです。つまり、道徳心は本能、または感情のままに生きてはいけないということを指し示しているのです。
    「公共の精神」を育むためにも道徳とは大切な要素です。どういうことかというと、集団で生きていくためには、マナーという「振る舞い」や「品位」が求められるからです。例えば、人間は集団で生きていくためには「同じ考え」が必要になってきます。同じ考えであるからこそ、共通の話題ができ、話題や発想が膨らむのです。根底が全く違う考えの人間がいてしまえば、集団社会の中で生きていくことは、まず無理です。AさんがBさんを差別し、BさんがAさんを差別するような関係では「破滅」しか道はないでしょう。互いに争いあい、互いに殺し合い、最後には「死」しかないのです。しかし、同じ考え、同じ生活基盤思想を持っていると話は違っていきます。その中には、ルールやモラルという人間が人間らしく、お互いに支えあうという道徳思想が大事なのです。現在の社会人でも「公」と「私」を区別できない人間は非常に多いのは事実です。電車の中で、座って、他人の迷惑を考えないということもあります。公共で使っているものを、まるで自分の家のような空間にいることが多いのです。「公」と「私」を区別できないのは、現代社会の社会的道徳基盤が崩れていると言うことにも繋がります。だから、道徳というものが大切になってくるのです。人が生きていくうえで、道徳は集団の思想にも合わせるようにもなっているのです。道徳は、人は一人では生きていけないということを示しているのかもしれません。我々が着ている服や、毎日食べている食べ物、公共で使っている道路や電車なども多くの組織と言う塊が培った技術を通して、生きる知恵で支えられていることを忘れてはいけません。

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