汚れたものを汚れたものとして、素直に書いた詩人。背徳の美を、罪という美をそのまま受け入れて書いた詩人。わたしがこの世で最も不満を抱く偽善家を、嘲り笑うどころか全く無視したその姿勢にわたしは惚れ込んだ。いや、これは畏怖というべきだろう。単に彼がわたしの最も興味を惹く要素、「男色」と「死」と「悲劇」を中心に抱いていたからと言えばそれは間違いではない。
「ほんとうに美しいものは必ず悲劇的だ」、高橋睦郎は言う。これは最も言ってはいけなかった真実である。人間の無意識の中で、誰もが感じている真実なのである。だからシェイクスピアの四大悲劇は四百年以上の時を超えて今も愛され続けるのであろうし、近年もてはやされている純愛物語も必ず悲劇的である。わたしは悲劇を最も愛する人間のひとりである。しかし素直にそうとは認めない。
高橋睦郎の美について
汚れたものを汚れたものとして、素直に書いた詩人。背徳の美を、罪という美をそのまま受け入れて書いた詩人。わたしがこの世で最も不満を抱く偽善家を、嘲り笑うどころか全く無視したその姿勢にわたしは惚れ込んだ。いや、これは畏怖というべきだろう。単に彼がわたしの最も興味を惹く要素、「男色」と「死」と「悲劇」を中心に抱いていたからと言えばそれは間違いではない。
「ほんとうに美しいものは必ず悲劇的だ」、高橋睦郎は言う。これは最も言ってはいけなかった真実である。人間の無意識の中で、誰もが感じている真実なのである。だからシェイクスピアの四大悲劇は四百年以上の時を超えて今も愛され続けるのであろうし、近年もてはやされている純愛物語も必ず悲劇的である。わたしは悲劇を最も愛する人間のひとりである。しかし素直にそうとは認めない。本物の悲劇とは、単なる「劇」では終れない。そこには胸を引裂かれる「現実の苦しみ」があるのだ。安易にそれを好きだということは出来ない。本当の悲劇を生み出す人が実際に、妄想によりそれらの作品を書くわけではないことは、これまでの色々な詩人を見てきて知っている。最愛の人の...