「個人」と「社会」の区別を超える「公共」概念
1.『プラグマティズム』から考える「公共」
前章では「公共」というものを日本のジャーナリズムに関わる法律や規定から見てきたが、本章では「私」的なものと「公」的・社会的なものとの比較の中でみていこうと思う。はじめに、シーバートが基本的目的として掲げた「個人」と「社会」を「同時」に満たすとはどういうことかという疑問を提示したが、これを考える上で、ジェイムズが『プラグマティズム』の中で「一と多」に関して考えている講が参考となる。ジェイムズは、一と多とはこの世界では絶対的に等位のものでどちらが先でより本質的で勝っているというものでもなく、また空間は事物の分離と結合を同等に行うのに、ときには分離機能が、ときには結合機能が心に訴えてくることを指摘し、世界が一であるか多であるかというのは見方にかかっているのであり、見方の違いから別々の名前がつけられるのであると言った(ジェイムズ1957:104-112)。この論理はシーバートが基本的目的に使った「個人」と「社会」に適用できる。さらに、ジェイムズは事物の統一性の方が事物の多様性よりも光輝くあるものと考える...