私は以前まで子どもというのは純粋なもので愛すべきものだと思っていたが、大学に入学して様々な子どもと触れ合う機会をもち、以前の考えがいかに甘いものであるかが思い知らされた。実際には子どもというのは非常に狡猾な生き物である。若くして如何に大人を欺くかという手段を確立しつつあるということを認識した。この根拠となった経験は学習塾におけるアルバイトであり、そこで新たな教育観を構築できたのである。
まず第一に、子どもには甘くしないことである。教師は初回の授業において子どもの心をつかもうと人気をとろうとしてはいけない。この行為は即、学級崩壊につながる。子どもは初対面において、眼前の大人はどれほど甘いかを試しているのである。例えば、授業中に立って歩き回る生徒がいたとする。それに対してはとにかく毅然とした態度で注意をしなければならない。これを怠るとその行為をとった生徒だけでなく周りの生徒全てが「ああ、このぐらいなら怒られないんだな」という認識が芽生えてしまう。初回で失敗した場合、これはもう取り返しがきかなくなるのは想像に難くない。
次に、子どもが何か言い訳をした場合は、それを鵜呑みにしないということである。その際にとる態度として理想的なのは一旦は納得した態度をとりつつ、続いてその生徒の論理の穴を攻めるのである。こうすることにより生徒は言い訳が通じないことを実感するし、周りの生徒も同じように認識すると思われる。子どもというのは如何に逃れるかを考えることが非常に巧みである。
生徒指導・進路指導Bレポート課題①
「罰することの有意性について」
Ⅰ.私の教育観
私は以前まで子どもというのは純粋なもので愛すべきものだと思っていたが、大学に入学して様々な子どもと触れ合う機会をもち、以前の考えがいかに甘いものであるかが思い知らされた。実際には子どもというのは非常に狡猾な生き物である。若くして如何に大人を欺くかという手段を確立しつつあるということを認識した。この根拠となった経験は学習塾におけるアルバイトであり、そこで新たな教育観を構築できたのである。
まず第一に、子どもには甘くしないことである。教師は初回の授業において子どもの心をつかもうと人気をとろうとしてはいけない。この行為は即、学級崩壊につながる。子どもは初対面において、眼前の大人はどれほど甘いかを試しているのである。例えば、授業中に立って歩き回る生徒がいたとする。それに対してはとにかく毅然とした態度で注意をしなければならない。これを怠るとその行為をとった生徒だけでなく周りの生徒全てが「ああ、このぐらいなら怒られないんだな」という認識が芽生えてしまう。初回で失敗した場合、これはもう取り返しがきかなくなるのは想像に...